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2019年 09月 10日
称念寺・ 新田義貞公御墓所(福井県坂井市丸岡町長崎)
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称念寺(しょうねんじ)福井県史跡 新田義貞公御墓所

太平記 巻二十では義貞公が自害したあとをこう記す
軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。
 「尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ」て弔われたんが、この称念寺だそうだぃね。

 日が暮れる前に称念寺へ急ぐ。近くでは北陸新幹線の工事が行われてて、カーナビの案内がビミョーに違ってるとこもあってまぁず悩んだよ。しっかし燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地までまぁず距離あんなぁ。4kmぐれぇあったんじゃねーきゃ。尸骸(亡骸の胴体部分)を輿に載せてぐんも大変だったんべなぁ。

 称念寺に到着。事前にお寺のホームページを見ると、義貞公推しだったんだんで、さぞかし義貞公一色かと思いきや・・・
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明智光秀公ゆかりの寺・・・(´Д` )

 来年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀が不遇の浪人時代にこの称念寺に身を寄せてたことがあるらしく、義貞公より、全面的な明智光秀推し!!あぁ無念なり!おそるべし大河ドラマの影響力!

b0004675_15324767.jpg あの松尾芭蕉もここに立ち寄り(1689)、明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ句の碑も建ってるで。来年の大河のときに絶対出るな、これ。

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天保8年(1837)新田義貞公500回忌に
福井藩主松平宗矩が建立した高さ2.6m余りの五輪石
塔下2段は旧墓石
藪蚊がいっぺぇ

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称念寺本堂:
明智光秀の幟が・・(´Д` )

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せっかくだから明智光秀の現地案内板も載せとく

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称念寺案内板:ここも明智光秀が優勢に!

b0004675_15313818.jpg 住職の書いた文献が本堂前にあったんで、購入してきたで。


b0004675_15281431.jpg 寺の隣では北陸新幹線が建設中だったぃ。


【参考文献・サイト】
 称念寺(公式)
 「新田義貞公と時宗・称念寺」高尾察誠 2016

 来年の大河ドラマは「麒麟がくる」で明智光秀だけんど、再来年の「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一なんだと!渋沢翁は昔は新田庄の血洗島出身だかんなぁ。再来年はぜひ義貞公全面推しに戻ってくんなぃ(笑)

 これで念願の福井の義貞公の関連史跡を3ケ所巡れたし、雨降りだったんは残念だったけんど、いやぁ実に有意義な旅だったぃ。いつか杣山城や金ヶ崎城や木の芽峠もぜひ行ってみてぇなぁ。でも東毛から500kmあって、車じゃまっさか遠かった。次はぜひ北陸新幹線がいーなぁ。

 福井・新田義貞公関連史跡めぐり 2019 ~完

by dr_suzuki | 2019-09-10 15:46 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 10日
燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地 (福井県福井市新田塚町)
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国指定史跡・燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(福井県福井市新田塚町)


 藤島神社を後にし、雨の中北上。次の目的地は「新田塚」、燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地さね。

「新田塚」は福井市新田塚町の藤島神社の旧蹟地だそうだぃね。かつて義貞公が被っていた兜が江戸時代(1656)に掘り出され(しかし近年ではこの兜は義貞公の時代と合わねぇとされてる)、新田義貞公の戦没地とされていた場所だぃね。その兜は藤島神社の社宝になってて、こないだ、群馬県歴史博物館で大新田氏展が行われたときに展示されてたんで、見にいったんさ。

太平記 巻二十では義貞公の最後をこう記す
義貞自害事 
燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千鈞の弩は為■鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。
 「天皇の股肱なんに、まぁずあっけねぇ最後で、がっかりだよ!」とむべもねぇやぃなぁ。

 雨の中目的地に到着。
 駐車する所に難儀し、県道を挟んだショッピングモール駐車場に停めさせていただく。
 そしてザーザー降りの雨ん中、傘をさしての参拝。
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拝殿

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現地説明板(かすれてる)

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新田塚・現地石碑

 生品神社で挙兵してから、幾多の運命に翻弄され、一度も新田の地を再び踏むことなく、偵戦中に足利方と遭遇し無念の戦死。義貞公、さぞかし無念だったんべなぁ。

 現在は地元新田塚町の方々を中心に5月5日(祝日)を新田塚祭礼日としてるそうだぃね。新田宮司の話では、昔は広大な田畑だったけんど、今は人口2万人余の福井市の新興住宅地になってるんだと。

 せっかくなんでスーパーに寄って、福井のお土産になりそうなもんを購入。福井ってブリのイナダのことを「フクラギ」ってゆうんだねぇ。

 さてとじゃあ日も暮れそうだし、最後の目的地に行ぐんべぇ(つづく)

by dr_suzuki | 2019-09-10 15:11 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2019年 09月 10日
藤島神社(福井県福井市毛矢)
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藤島神社(福井県福井市)
藤島神社に念願の参拝!

 2019年夏の旅行は、北陸をチョイス。東毛の英雄、新田義貞公を主祭神とする藤島神社を訪れて参拝するんが今回の旅の主目的の一つさね。ここに一度行ぐんは子供の頃からの夢だったんさ。以前からネットで藤島神社の新田義和宮司と知り合い、交流していただいてたんで、訪問の予定をお知らせすると快諾していただいたんさ。ただ8月25日が藤島神社の大祭(義貞公の御命日)にあたるんで、お邪魔にならぬよう27日に向かうことにしたで。

 8月27日、朝から雨。午前中に永平寺町の吉祥山永平寺に参拝して、昼食を摂ったあと、雨の中、藤島神社に向かう。途中藤島地区を通過。藤島神社は市街を見下ろせる小山・足羽山の中腹にあるんだけんど、福井市って、路面電車があるんね。路面電車の交通法規ってすっかり忘れちまってて、なっから焦ったで。

 藤島神社の公式サイトによると、明治に入って、新田義貞公の忠誠に対し神として祀る運動が起こり、明治9年11月「別格官幣社藤島神社」が創建、明治14年同郡牧ノ島に社殿を移したが、水害が甚だしいため、明治34年5月、足羽山の現在地へ遷されたんだと。

 藤島神社へ到着。まずは拝殿に参拝。

 義貞公!草莽のすずき@東毛、はるか新田の地より越前まで参じました!
 いやぁガキの頃からの宿願を果たして感無量~!

 そして藤島神社の社務所で新田宮司に初にお目にかかり、いろんな話を伺えたんは実に有意義だったいね。あぁ来て本当に良かったぃなぁ。

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拝殿を横から(正面の画像はオレが写り込んでたんで割愛)

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本殿(雨天の上に逆光・・・)

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摂社・野神神社
滋賀より分祠、義貞公の愛妾・勾當内侍を祀る
縁結びの神になってるで

 今から3年半後には北陸新幹線が敦賀まで延伸されるそうなんで、その際には敦賀の金ヶ崎城と合わせて、またぜひ天気の良いときに参拝に伺いてぇやぃなぁ。
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新田宮司、お土産を頂戴しありがとうございました!


 【参考サイト】
 藤島神社(贈正一位新田義貞公之大宮) (公式)

 さて、次の目的地に行くんべぇ。

(つづく)

by dr_suzuki | 2019-09-10 14:58 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2019年 07月 17日
横瀬神社・華蔵寺 (埼玉県深谷市横瀬)
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横瀬神社 (埼玉県深谷市横瀬)

 一部のマニアな方々にお送りする新田氏関連史跡探訪シリーズ。

 7月14日日曜、雨も降ってるんでどっか近くに出かけるかっつーことで、今度新一万円札の肖像になる渋沢栄一氏の展示がある、深谷市の渋沢栄一記念館に行ってみることにしたで。公民館の中に記念館があって入場無料。館内の隣ではバスケの3on3が行われてるシュールな構造。公民館北には巨大な渋沢栄一氏の像が遠く赤城山を眺めるように立ってるで。「血洗島(ちあらいじま)」っつー奇妙な地名にある渋沢氏の生家(中ん家)にも行ってみたで。いやぁすげぇ豪農だぃな。
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 深谷まで来たんだし、雨も小降りになったんで、こっからちょっと北の横瀬にある新田氏関連史跡の横瀬神社&華蔵寺に寄ってみることにしたで。車で5分もかかんねぇ本庄との境らへんにあるんさ。
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横瀬神社・拝殿

 本殿の彫刻はうまく写せなかった(´Д` )んで割愛・・
 これら彫刻は江戸時代に上州の者たちによるもんだったみてぇよ。

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横瀬神社・現地案内板

 新田義貞の孫・国寿丸って誰のことなんだんべ?
 新田吉宗の子と伝わる貞氏?
 はたまたこれは横瀬氏が後に新田嫡流を名乗るための創作なんきゃ?

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神社北隣、別当寺の華蔵寺・本堂

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華蔵寺・現地案内板

 新田義重の三男・義包の開基なんだと。
 紋が新田氏の家紋・大中黒だぃね!
 ここは渋沢栄一氏の菩提寺でもあり、境内に渋沢氏が植えたっつー松があるで(2代目)

 はるか昔は、ここ深谷の横瀬も新田荘の一部だったんだそうだぃね。川向うまで支配するんはまぁず難しいだんべから、利根川が今よりもまっと南に流れてて上野と地続きだったんかね?

 その後横瀬氏は貞氏から数えて7代目当主の横瀬泰繁が岩松昌純を下克上して金山城主になって。次の当主・横瀬成繁は、鎌倉時代に新田氏宗家が代々相伝していた上野国新田郡由良郷の地名を姓をし、由良成繁と名乗って戦国時代の荒波に呑まれてぐんさ。後の東毛と複雑に歴史の綾が絡んでらぃなぁ。

 渋沢栄一記念館に来たついでにでも寄ってみてくんなぃ!

b0004675_0545276.gif 横瀬神社 (Yahoo!地図)



by dr_suzuki | 2019-07-17 22:42 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(2)
2019年 06月 16日
国立劇場・令和元年6月歌舞伎鑑賞教室「神霊矢口渡」へ
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 『太平記』巻三十三の「新田左兵衛佐義興自害ノ事」、新田義貞公の次男・新田義興が矢口の渡しで謀殺されたこの話を題材に、江戸時代の科学者・平賀源内が福内鬼外のペンネームで書いた歌舞伎「神霊矢口渡」(しんれいやぐちのわたし)。6月に国立劇場・歌舞伎鑑賞教室でやってるってゆーんで、新田氏マニアのオレは一度はぜひ観てみてぇと思ってたんで、行ってみたで。

 今年は落語、講談ときて、今度は人生初の歌舞伎鑑賞、初めての国立劇場。まずは隣接の伝統芸能情報館で「かぶき入門」の展示で歌舞伎のお勉強。「隈取り」にもいろんなもんがあることを知ったで。
そして国立劇場の歌舞伎鑑賞教室が開場。観客は老若男女問わず・・・てか、若ぇ女子がいっぺぇだぃなぁ。歌舞伎は難しいんもんなんじゃねぇかと思ってたんだけんど、演目の前に、中村虎之介さんの「歌舞伎のみかた」の解説(時勢を反映してSNSのアップ用に1分間撮影可の時間もあった(笑)#歌舞伎みたよ でどんどんアップしてOKなんだと)もあって良かったで。全5段目あるうち一番有名な第4段目の「頓兵衛住家の段」をやったんだけんど、演目中は両サイドで義太夫が字幕表示されるんは解りやすくって良かったし、女方の中村壱太郎さんもまぁず巧かったぃなぁ。何より演目中に大中黒の旗が出てくるんは新田者には感激だで!

神霊矢口渡 (Wikipedia) :詳しいあらすじあり 2019年6月16日アクセス

b0004675_0545276.gif せっかくなんで、新田氏関連関連史跡めぐりタグに分類しとくんべ。

※新田義興を祀った東京大田区の新田神社探訪の拙ブログの記事はこちら、十寄神社探訪の記事はこちら


by dr_suzuki | 2019-06-16 23:58 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2019年 06月 10日
群馬県立歴史博物館「大新田氏展」へ
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群馬県立歴史博物館「大新田氏展」(第98回企画展 2019年) へ
図録も買ってきたで!

6月9日梅雨寒の日、高崎市の群馬県立歴史博物館大新田氏展」へ
いやぁ新田氏好きなオレにはどストライク!
福井の藤島神社所蔵の鉄製銀象眼冑や肖像画など
福井に行がなきゃ見られねぇと思ってたお宝の数々もみられてまぁず感激!

義貞公の出自について新説が出てたんはまっさか驚いたなぁ。

でも西谷氏から本宗家に養子に出されてたとしたら、
西谷氏の弟たちが、まっと活躍の場を与えられたんじゃねぇかと思うし、
生品明神の旗揚げの時にもいて、太平記にも書かれると思うんだけんどなぁ。
養子説なら里見氏から新田宗家に養子に行った伝説の方が、
旗揚げの時に、西毛から里見五郎義胤が加わってるし説得力ある気がするんだけんどね。
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そんな中、ザスパがホーム敷島でまさかの5-0で大勝したとの知らせが!
・・・オレは「大新田氏展」が見たかったんだもん、後悔はしてねぇやぃ!

※「新田氏関連史跡めぐり」のタグに加えとくんべっと。

by dr_suzuki | 2019-06-10 17:30 | ぐんま | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 27日
大井田城跡 (新潟県十日町市)
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大井田城跡(新潟県指定史跡・十日町市)

 一部のマニアな方々にお送りする久々の「新田氏関連史跡探訪」シリーズ!今回は、越後の新田一族・大井田氏の居城を訪ねる旅さね。

 1333年(元弘3年5月)新田義貞公が150騎余りで生品神社で挙兵し、その義貞軍に(現在の高崎市八幡荘付近でとされる)約2000騎で援軍に加わった越後の軍勢。その越後新田軍の棟梁が新田氏の一族・里見氏の流れをくみ、妻有(現在の十日町市・津南町周辺)に進出・土着していた大井田氏だったんさね。大井田経隆・氏経親子は鎌倉攻めでも新田軍の大将として活躍し、建武の新政以後は、経隆の次男、大井田氏経は義貞公と各地を転戦、1336年(延元元年)足利尊氏・直義兄弟と、備中福山城でわずか2000騎で九州から攻め上がってきた足利直義20万の大軍を迎え撃って奮戦したり、越前に転戦した義貞公を救援すべく越後で2万の兵を集めたんだけんど、合流前に義貞公が戦死の報を受け援軍は瓦解。その後は嫡男・義宗を庇護し、彼に従い、北朝方の信濃守護小笠原貞宗・関東管領上杉憲顕を大井田城で迎え撃ってるで。子孫は、あの上杉景勝にも従ったっつーで。

 『太平記』でその大井田氏が初めて登場するんは 巻十「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」さね。その部分はこんな感じさね。
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
(前略)
同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。(攻略)
(すずき@東毛の思いっきり意訳)
 五月八日の朝六時頃、生品明神の前で旗上げをして、綸旨を披いて三度拝んだ後、笠懸野へ打って出た。(中略)その時の軍勢は僅か百五十騎に過ぎず、この軍勢では仕方ないかと思っていたところ、其日の夕方に2千騎程の軍勢が甲冑を着て、馬煙をあげてやってきた。うわぁ敵か!?と思い見ていたが、敵ではなく越後の一族の、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々だった。義貞は喜び勇んで、「(討幕の挙兵は)前々から計画してたのだけど、昨日今日の話とは思ってなかった。突然決心してこのようになってしまったので、あなた方にそのことを知らせる間もなかったのに、どうやってこのことを知ったのです?」と越後勢に聞くと、大井田遠江守が馬上にて申すには「大義をご決心されたと聞いて、馳せ参じました。去る5日、使いだと言って、一人の天狗山伏が、越後の国中を一日の間に触れ回ったので、急いで駆けつけた次第です。遠境の者たちはきっと明日参るでしょう。他国へ攻め入るのは少々お待ちくださいますよう」といった。後陣の越後勢ならびに甲斐・信濃の源氏たちが、家々の旗を立てて、5千騎余りで駆けつけた。義貞・義助は大いに喜んで「これもみな八幡大菩薩のご加護によるものである。さぁ出発だ」と、同9日に武蔵国に打って出た。紀五左衛門が、足利高氏のご子息の千寿王殿を奉じて、2百騎とともに馳せ参じた。次いで上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵が次々と集まり、その日の暮れには総勢20万7千騎となったのである。

 討幕の旗を挙げたとはいえ、わずか150騎だった義貞軍に、その日のうちに八幡荘で、馬煙を上げてやってくる大軍団。うわ!!やべぇ敵か!!?と思ったら、それがはるばる越後からやってきた大軍勢の援軍登場!なんて、まるで少年〇ャンプの漫画のようなドラマチックな展開。そんな大井田氏の大井田城跡が、十日町市にあるってゆうんで行ってみたで。

b0004675_15403544.jpg 10月21日爽やかに晴れた秋の日。関越道を北上して、六日町ICから山を越えて十日町へ。まずは十日町市博物館に寄って、新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器(国宝):火焔型縄文式土器を見物。中世のコーナーに大井田城の詳細と復元模型があったんで、ちっと知識をつけてから現地に行ってみんべぇか。
b0004675_15403183.jpg その前に、腹ごしらえ。十日町は越後名物の「へぎそば」の発祥の地っつーことなんで、小嶋屋本店さんで「へぎそば」を食ってみたで。いやぁフツーのそばより歯ごたえがあってうんめぇし、なんだか腹持ちもいいやぃ。薬味はワサビじゃなくって辛子なんだと。


 小嶋屋さんから国道117号に出て、中条小学校の交差点を東へ。大井田城跡は、標高約300mぐれぇの丘陵の上にあるんさ。途中で「大井田城跡←」の印の分岐があり、そっから上り道。そこまでの道は1車線分で舗装はされてるけんど、脇に側溝があって、落ち葉があるとわかりづれんで行ぐ人は注意してくんない。国道から10分もかからねぇかな。

 道路終点に、車が置けるスぺ―スがあって、説明板が設置されてるで。
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現地説明板

b0004675_15402386.jpg そっから山頂まで、徒歩で登ってぐ。よく整備され、下草もきれいに刈り取られてて、2分もあれば山頂まで到着するで。オレは山城の構造は不勉強なんで、よくはわかんねんだけんど、土塁や虎口かと思うところがあらいね。


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山頂へ

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山頂(主郭部)の石碑群
大井田経隆・氏経親子の石碑とその家臣の忠魂碑

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眼下に見えるのは信濃川

 行ってみてわかったことは・・・いやぁ大井田城、なっから遠い。それに南に聳える上越国境の山々が高くて厳しすぎ。『太平記』では討幕挙兵の知らせを天狗山伏が触れ回ったことにしてるけど、八幡荘で合流したんが史実だとすっと、そこで越後の一族が援軍として合流するんなら、すげぇ綿密な討幕計画を練って、予め相当前に伝達しなきゃだめだんべ。山越えする越後軍の兵站の問題がまっさか大変だしね。義貞公没後も、この地で嫡男の新田吉宗を匿っていたとか。その後の南北朝時代の展開の一端を担ってたんは、この山城だったんだんべなぁ。

b0004675_0545276.gif 大井田城跡 (Yahoo!ロコ)


(参考文献・サイト:いずれも2018年10月27日アクセス)
『太平記』(巻十)
【県指定文化財】大井田城跡(おおいだじょうせき) 十日町市公式 
十日町市博物館 中世に「大井田城」の記載あり
 


by dr_suzuki | 2018-10-27 15:51 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 23日
威光寺・新田義興公の墓 (太田市由良町)
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威光寺・新田義興公の墓(太田市由良町)
中央の宝篋印塔が義興公の墓とされる

 久々の新田氏史跡めぐりシリーズ。まだ太田で行ってねぇところがあったで(笑) 今回は新田義貞公の次男、新田義興(よしおき:幼名徳寿丸)の墓とされる宝篋印塔がある太田市由良町の威光寺へ。

 えー、まずは寺の山門脇の説明板を
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 説明板には元徳2年(1330)に新田義興公の開基ってあるんだけんど、義興公は1331年頃生誕とされるんだけどね・・新田徳寿丸は1337年奥州の北畠顕家の西上軍に同行し、吉野で後醍醐天皇に謁見し義興の名を賜った。観応の擾乱に乗じ、上州で挙兵し、その後の1352年に宗良親王を奉じて、弟義宗、従弟脇屋義治と挙兵して鎌倉を一時占拠。しかし朝敵・足利尊氏の反撃にあって鎌倉を追われ、敗走。足利尊氏の没した1358年再び鎌倉を目指したんだけんど、足利方の奸計により、多摩川の矢口の渡しで謀殺されちまう。その後義興の亡霊が夜な夜な現れたため、霊を鎮めるために新田神社が祀られたっつー話さね。(この事件を題材に福内鬼外 (平賀源内 ) らの作った通し狂言『神霊矢口渡』としても有名:今年11月に国立劇場で演じられた)義興公を祀った大田区・新田神社の2009年の探訪記はこちら。その後どうゆう経緯があったんかは不明だけんど、ここ威光寺に墓が作られたらしい。後世の追善供養の時にこさえたんだんべなぁ。

b0004675_18292645.jpg 義興公の墓は立派な本堂の西側にあるで。

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義興公の墓とされる宝篋印塔
近くに義興公の説明板がほしいんね
宝篋印塔は門外漢なんで・・・でも室町期じゃねぇようにも思う


 行ってみっかっつーヤツは県道312号で。県道だけんどこの由良の辺りはおーか狭めぇんで注意してくんない。山門への入口もまっさか狭めぇんで3ナンバーの車は入るんに気ぃつけて。

b0004675_0545276.gif 正英山自性院威光寺 (Yahoo!ロコ)


【参考サイト】
破魔矢発祥の地 新田神社 (公式:東京都大田区) ←気合入ってる! 2015年12月23日アクセス
11月歌舞伎公演「通し狂言 神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」 (国立劇場公式) 2015年12月23日アクセス
新田神社(東京都大田区):拙ブログ2009年の記事

 10月に発刊された安倍龍太郎氏の小説『義貞の旗』(集英社)には、これまでの義貞公の小説と趣が違って、この徳寿丸と母(義貞公側室)がキーパーソンになってるんだぃね。義貞公好きな方はぜひ・・・だけんどなんだか義貞公の後醍醐天皇に対する態度がおーか不遜に書かれてて(´Д`)、そしてその最期もあまりにもあっけなくて(´Д`)・・・新田氏シンパとしちゃあ、なんだかなぁな感じさね 

義貞の旗

安部 龍太郎 / 集英社



by dr_suzuki | 2015-12-23 18:42 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 01日
晩秋の生品神社 (太田市新田市野井町)
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晩秋の生品神社 (太田市新田市野井町)

 暇な日曜は、ingressのポータル廻り。治良門橋駅周辺を歩った後は、ingressの5つのポータルが設定されてる新田市野井町の生品神社へ。

 着いたらにわかに曇り空に(´Д`) 曇っちゃうとiPhone4sじゃ力不足なんだぃなぁ。

 鳥居のそばには、大きな銀杏と見事な紅葉。生品神社は紅葉の名所ってわけじゃねぇけんど、雰囲気のある神社って紅葉がおーか似合わぃねぇ。新田義貞公の銅像も、ちっとくすんできて、なかなかシブさが増してきたじゃねぇきゃ。

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All pics taken by iPhone4s


by dr_suzuki | 2014-12-01 12:55 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2014年 08月 04日
正法寺 (太田市脇屋町)
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正法寺・仁王門(市重要文化財)

b0004675_855870.jpg 夏といえば、今年も太田市主催の「おおたんの歴史探検スタンプラリー」さね。いくつかポイントが入れ替われるんだけんど、今年はポイントが4つ増えたぃね。その中のひとつにまだオレが行ったことねぇ脇屋氏の菩提寺の正法寺が加わった!んで行ってみたで。


 脇屋山正法寺は延喜年間(901~923)の開山といわれ、その後新田義重が改修し、元弘年間(1331-1334)には新田義貞公の弟、脇屋義助が所領の由良郷脇屋村及び大般若経六百巻を寄進したんだと。

 脇屋義助公についてはWikipediaを引用すっと
上野国新田郡脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字「脇屋」を称した。
元弘3年(1333年)5月、兄義貞とともに新田荘にて挙兵して鎌倉を攻める。執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、諸将の論功行賞によって、同年8月5日、正五位下に叙位。左衛門佐に任官。
また、同年、一時期、駿河国守護にもなる。以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任。また、このころ設置された武者所の構成員となり、同所五番となる。その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した。延元元年/建武3年(1336年)、刑部卿に転任。延元3年/建武5年(1338年)に義貞が不慮の戦死を遂げると越前国の宮方の指揮を引き継いだ。 兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前から退いた。
延元4年/暦応2年(1339年)9月には従四位下に昇叙する。
興国3年/康永元年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国府で突如発病し、そのまま病没した。享年38。墓所は倉吉打吹の大蓮寺。

 そんな義助公は子煩悩で息子の義治を別れるのがつらいと箱根の合戦に連れてきたりする一面もあるんさ。(義治は父の死後、義貞公の遺児、義興・義宗と行動をともにし、南朝方として足利政権を苦しめる)ちなみに平成3年の名作の誉れ高きNHK大河ドラマの『太平記』では、脇屋義助役は、あの気象予報士・石原良純さんだったんさね。

 太田市中心街から県道2号を西へ。脇屋地区に曲がってぐと、あいかわらず道が狭めぇ・・・って、地元の夏祭りをやってたぃ。狭めぇ道に神輿出ちゃって、ちっと難儀(´Д`) スタンプラリーの幟はためく正法寺に到着。実家に行ぐ近道で何度も前は通ったことあるんだけんど、実際に来たんは初めてさね。

 まずは参道にある現地案内板を
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現地説明板

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仁王門と仁王尊(金剛力士像)(市重要文化財)

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観音堂(スタンプラリーのスタンプあり):もろに逆光(´Д`)


本堂南側左奥には
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脇屋義助公・石像
!!━━━━(゚∀゚)━━━━!!

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脇屋義助脇屋義助公遺髪塚
・・・もしまだ遺髪があるんなら血液型とかわっかんねぇかなぁと思っちまう

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遺髪塚/観音免遺跡から出土の層塔
文化財観音堂/お掃除小僧

 正法寺は古くはこっから南東1kmにある脇屋館後隣接地の観音免(かんのんめん)にあったとされ(江戸時代に現地に移転)、観音免遺跡からは板碑、五輪塔、層塔が出土し、そのうち層塔は脇屋義助公遺髪塚脇に移設されてる。(脇屋義助の板碑は明王院から出土してる)
 境内にはオクマン山古墳の台石も移設されてた。オクマン山古墳出土の埴輪はこちら

 いやぁ、それにしても暑っちぃ。見物の最中、何組かの親子連れがスタンプ押しにきたけど、押したらソッコーで帰ぇっちまって遺髪塚の方には来ねぇやぃなぁ・・・スタンプ押すだけがミッションなんだんべなぁ(´Д`)

 じゃあ次は南東1kmにある脇屋館跡に行ぐとすっきゃ・・・って、実は過去に何度か探しにきたことあるんだけんど、辿りつけなかったんさ。ネットの情報を便りにやっとめっけたで!!
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「脇屋義助公居館跡」の碑

 円福寺茶臼山古墳の国良親王御陵の石碑と同じ造りなんで戦前に建てられたもんなんかな。ネットの情報でみっとこの周りは一面の畑だったんに、最近すぐ裏に住宅も建てられたみてぇ。だいぶこの辺りも宅地化されてるんだねぇ。

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b0004675_0545276.gif  脇屋山正法寺 (Yahoo!ロコ)
 「脇屋義助公居館跡」の碑 (Yahoo!ロコ)

by dr_suzuki | 2014-08-04 17:27 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)