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2018年 10月 27日
大井田城跡 (新潟県十日町市)
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大井田城跡(新潟県指定史跡・十日町市)

 一部のマニアな方々にお送りする久々の「新田氏関連史跡探訪」シリーズ!今回は、越後の新田一族・大井田氏の居城を訪ねる旅さね。

 1333年(元弘3年5月)新田義貞公が150騎余りで生品神社で挙兵し、その義貞軍に(現在の高崎市八幡荘付近でとされる)約2000騎で援軍に加わった越後の軍勢。その越後新田軍の棟梁が新田氏の一族・里見氏の流れをくみ、妻有(現在の十日町市・津南町周辺)に進出・土着していた大井田氏だったんさね。大井田経隆・氏経親子は鎌倉攻めでも新田軍の大将として活躍し、建武の新政以後は、経隆の次男、大井田氏経は義貞公と各地を転戦、1336年(延元元年)足利尊氏・直義兄弟と、備中福山城でわずか2000騎で九州から攻め上がってきた足利直義20万の大軍を迎え撃って奮戦したり、越前に転戦した義貞公を救援すべく越後で2万の兵を集めたんだけんど、合流前に義貞公が戦死の報を受け援軍は瓦解。その後は嫡男・義宗を庇護し、彼に従い、北朝方の信濃守護小笠原貞宗・関東管領上杉憲顕を大井田城で迎え撃ってるで。子孫は、あの上杉景勝にも従ったっつーで。

 『太平記』でその大井田氏が初めて登場するんは 巻十「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」さね。その部分はこんな感じさね。
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
(前略)
同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。(攻略)
(すずき@東毛の思いっきり意訳)
 五月八日の朝六時頃、生品明神の前で旗上げをして、綸旨を披いて三度拝んだ後、笠懸野へ打って出た。(中略)その時の軍勢は僅か百五十騎に過ぎず、この軍勢では仕方ないかと思っていたところ、其日の夕方に2千騎程の軍勢が甲冑を着て、馬煙をあげてやってきた。うわぁ敵か!?と思い見ていたが、敵ではなく越後の一族の、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々だった。義貞は喜び勇んで、「(討幕の挙兵は)前々から計画してたのだけど、昨日今日の話とは思ってなかった。突然決心してこのようになってしまったので、あなた方にそのことを知らせる間もなかったのに、どうやってこのことを知ったのです?」と越後勢に聞くと、大井田遠江守が馬上にて申すには「大義をご決心されたと聞いて、馳せ参じました。去る5日、使いだと言って、一人の天狗山伏が、越後の国中を一日の間に触れ回ったので、急いで駆けつけた次第です。遠境の者たちはきっと明日参るでしょう。他国へ攻め入るのは少々お待ちくださいますよう」といった。後陣の越後勢ならびに甲斐・信濃の源氏たちが、家々の旗を立てて、5千騎余りで駆けつけた。義貞・義助は大いに喜んで「これもみな八幡大菩薩のご加護によるものである。さぁ出発だ」と、同9日に武蔵国に打って出た。紀五左衛門が、足利高氏のご子息の千寿王殿を奉じて、2百騎とともに馳せ参じた。次いで上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵が次々と集まり、その日の暮れには総勢20万7千騎となったのである。

 討幕の旗を挙げたとはいえ、わずか150騎だった義貞軍に、その日のうちに八幡荘で、馬煙を上げてやってくる大軍団。うわ!!やべぇ敵か!!?と思ったら、それがはるばる越後からやってきた大軍勢の援軍登場!なんて、まるで少年〇ャンプの漫画のようなドラマチックな展開。そんな大井田氏の大井田城跡が、十日町市にあるってゆうんで行ってみたで。

b0004675_15403544.jpg 10月21日爽やかに晴れた秋の日。関越道を北上して、六日町ICから山を越えて十日町へ。まずは十日町市博物館に寄って、新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器(国宝):火焔型縄文式土器を見物。中世のコーナーに大井田城の詳細と復元模型があったんで、ちっと知識をつけてから現地に行ってみんべぇか。
b0004675_15403183.jpg その前に、腹ごしらえ。十日町は越後名物の「へぎそば」の発祥の地っつーことなんで、小嶋屋本店さんで「へぎそば」を食ってみたで。いやぁフツーのそばより歯ごたえがあってうんめぇし、なんだか腹持ちもいいやぃ。薬味はワサビじゃなくって辛子なんだと。


 小嶋屋さんから国道117号に出て、中条小学校の交差点を東へ。大井田城跡は、標高約300mぐれぇの丘陵の上にあるんさ。途中で「大井田城跡←」の印の分岐があり、そっから上り道。そこまでの道は1車線分で舗装はされてるけんど、脇に側溝があって、落ち葉があるとわかりづれんで行ぐ人は注意してくんない。国道から10分もかからねぇかな。

 道路終点に、車が置けるスぺ―スがあって、説明板が設置されてるで。
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現地説明板

b0004675_15402386.jpg そっから山頂まで、徒歩で登ってぐ。よく整備され、下草もきれいに刈り取られてて、2分もあれば山頂まで到着するで。オレは山城の構造は不勉強なんで、よくはわかんねんだけんど、土塁や虎口かと思うところがあらいね。


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山頂へ

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山頂(主郭部)の石碑群
大井田経隆・氏経親子の石碑とその家臣の忠魂碑

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眼下に見えるのは信濃川

 行ってみてわかったことは・・・いやぁ大井田城、なっから遠い。それに南に聳える上越国境の山々が高くて厳しすぎ。『太平記』では討幕挙兵の知らせを天狗山伏が触れ回ったことにしてるけど、八幡荘で合流したんが史実だとすっと、そこで越後の一族が援軍として合流するんなら、すげぇ綿密な討幕計画を練って、予め相当前に伝達しなきゃだめだんべ。山越えする越後軍の兵站の問題がまっさか大変だしね。義貞公没後も、この地で嫡男の新田吉宗を匿っていたとか。その後の南北朝時代の展開の一端を担ってたんは、この山城だったんだんべなぁ。

b0004675_0545276.gif 大井田城跡 (Yahoo!ロコ)


(参考文献・サイト:いずれも2018年10月27日アクセス)
『太平記』(巻十)
【県指定文化財】大井田城跡(おおいだじょうせき) 十日町市公式 
十日町市博物館 中世に「大井田城」の記載あり
 


by dr_suzuki | 2018-10-27 15:51 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 23日
威光寺・新田義興公の墓 (太田市由良町)
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威光寺・新田義興公の墓(太田市由良町)
中央の宝篋印塔が義興公の墓とされる

 久々の新田氏史跡めぐりシリーズ。まだ太田で行ってねぇところがあったで(笑) 今回は新田義貞公の次男、新田義興(よしおき:幼名徳寿丸)の墓とされる宝篋印塔がある太田市由良町の威光寺へ。

 えー、まずは寺の山門脇の説明板を
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 説明板には元徳2年(1330)に新田義興公の開基ってあるんだけんど、義興公は1331年頃生誕とされるんだけどね・・新田徳寿丸は1337年奥州の北畠顕家の西上軍に同行し、吉野で後醍醐天皇に謁見し義興の名を賜った。観応の擾乱に乗じ、上州で挙兵し、その後の1352年に宗良親王を奉じて、弟義宗、従弟脇屋義治と挙兵して鎌倉を一時占拠。しかし朝敵・足利尊氏の反撃にあって鎌倉を追われ、敗走。足利尊氏の没した1358年再び鎌倉を目指したんだけんど、足利方の奸計により、多摩川の矢口の渡しで謀殺されちまう。その後義興の亡霊が夜な夜な現れたため、霊を鎮めるために新田神社が祀られたっつー話さね。(この事件を題材に福内鬼外 (平賀源内 ) らの作った通し狂言『神霊矢口渡』としても有名:今年11月に国立劇場で演じられた)義興公を祀った大田区・新田神社の2009年の探訪記はこちら。その後どうゆう経緯があったんかは不明だけんど、ここ威光寺に墓が作られたらしい。後世の追善供養の時にこさえたんだんべなぁ。

b0004675_18292645.jpg 義興公の墓は立派な本堂の西側にあるで。

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義興公の墓とされる宝篋印塔
近くに義興公の説明板がほしいんね
宝篋印塔は門外漢なんで・・・でも室町期じゃねぇようにも思う


 行ってみっかっつーヤツは県道312号で。県道だけんどこの由良の辺りはおーか狭めぇんで注意してくんない。山門への入口もまっさか狭めぇんで3ナンバーの車は入るんに気ぃつけて。

b0004675_0545276.gif 正英山自性院威光寺 (Yahoo!ロコ)


【参考サイト】
破魔矢発祥の地 新田神社 (公式:東京都大田区) ←気合入ってる! 2015年12月23日アクセス
11月歌舞伎公演「通し狂言 神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」 (国立劇場公式) 2015年12月23日アクセス
新田神社(東京都大田区):拙ブログ2009年の記事

 10月に発刊された安倍龍太郎氏の小説『義貞の旗』(集英社)には、これまでの義貞公の小説と趣が違って、この徳寿丸と母(義貞公側室)がキーパーソンになってるんだぃね。義貞公好きな方はぜひ・・・だけんどなんだか義貞公の後醍醐天皇に対する態度がおーか不遜に書かれてて(´Д`)、そしてその最期もあまりにもあっけなくて(´Д`)・・・新田氏シンパとしちゃあ、なんだかなぁな感じさね 

義貞の旗

安部 龍太郎 / 集英社



by dr_suzuki | 2015-12-23 18:42 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 01日
晩秋の生品神社 (太田市新田市野井町)
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晩秋の生品神社 (太田市新田市野井町)

 暇な日曜は、ingressのポータル廻り。治良門橋駅周辺を歩った後は、ingressの5つのポータルが設定されてる新田市野井町の生品神社へ。

 着いたらにわかに曇り空に(´Д`) 曇っちゃうとiPhone4sじゃ力不足なんだぃなぁ。

 鳥居のそばには、大きな銀杏と見事な紅葉。生品神社は紅葉の名所ってわけじゃねぇけんど、雰囲気のある神社って紅葉がおーか似合わぃねぇ。新田義貞公の銅像も、ちっとくすんできて、なかなかシブさが増してきたじゃねぇきゃ。

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All pics taken by iPhone4s


by dr_suzuki | 2014-12-01 12:55 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2014年 08月 04日
正法寺 (太田市脇屋町)
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正法寺・仁王門(市重要文化財)

b0004675_855870.jpg 夏といえば、今年も太田市主催の「おおたんの歴史探検スタンプラリー」さね。いくつかポイントが入れ替われるんだけんど、今年はポイントが4つ増えたぃね。その中のひとつにまだオレが行ったことねぇ脇屋氏の菩提寺の正法寺が加わった!んで行ってみたで。


 脇屋山正法寺は延喜年間(901~923)の開山といわれ、その後新田義重が改修し、元弘年間(1331-1334)には新田義貞公の弟、脇屋義助が所領の由良郷脇屋村及び大般若経六百巻を寄進したんだと。

 脇屋義助公についてはWikipediaを引用すっと
上野国新田郡脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字「脇屋」を称した。
元弘3年(1333年)5月、兄義貞とともに新田荘にて挙兵して鎌倉を攻める。執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、諸将の論功行賞によって、同年8月5日、正五位下に叙位。左衛門佐に任官。
また、同年、一時期、駿河国守護にもなる。以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任。また、このころ設置された武者所の構成員となり、同所五番となる。その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した。延元元年/建武3年(1336年)、刑部卿に転任。延元3年/建武5年(1338年)に義貞が不慮の戦死を遂げると越前国の宮方の指揮を引き継いだ。 兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前から退いた。
延元4年/暦応2年(1339年)9月には従四位下に昇叙する。
興国3年/康永元年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国府で突如発病し、そのまま病没した。享年38。墓所は倉吉打吹の大蓮寺。

 そんな義助公は子煩悩で息子の義治を別れるのがつらいと箱根の合戦に連れてきたりする一面もあるんさ。(義治は父の死後、義貞公の遺児、義興・義宗と行動をともにし、南朝方として足利政権を苦しめる)ちなみに平成3年の名作の誉れ高きNHK大河ドラマの『太平記』では、脇屋義助役は、あの気象予報士・石原良純さんだったんさね。

 太田市中心街から県道2号を西へ。脇屋地区に曲がってぐと、あいかわらず道が狭めぇ・・・って、地元の夏祭りをやってたぃ。狭めぇ道に神輿出ちゃって、ちっと難儀(´Д`) スタンプラリーの幟はためく正法寺に到着。実家に行ぐ近道で何度も前は通ったことあるんだけんど、実際に来たんは初めてさね。

 まずは参道にある現地案内板を
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現地説明板

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仁王門と仁王尊(金剛力士像)(市重要文化財)

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観音堂(スタンプラリーのスタンプあり):もろに逆光(´Д`)


本堂南側左奥には
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脇屋義助公・石像
!!━━━━(゚∀゚)━━━━!!

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脇屋義助脇屋義助公遺髪塚
・・・もしまだ遺髪があるんなら血液型とかわっかんねぇかなぁと思っちまう

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遺髪塚/観音免遺跡から出土の層塔
文化財観音堂/お掃除小僧

 正法寺は古くはこっから南東1kmにある脇屋館後隣接地の観音免(かんのんめん)にあったとされ(江戸時代に現地に移転)、観音免遺跡からは板碑、五輪塔、層塔が出土し、そのうち層塔は脇屋義助公遺髪塚脇に移設されてる。(脇屋義助の板碑は明王院から出土してる)
 境内にはオクマン山古墳の台石も移設されてた。オクマン山古墳出土の埴輪はこちら

 いやぁ、それにしても暑っちぃ。見物の最中、何組かの親子連れがスタンプ押しにきたけど、押したらソッコーで帰ぇっちまって遺髪塚の方には来ねぇやぃなぁ・・・スタンプ押すだけがミッションなんだんべなぁ(´Д`)

 じゃあ次は南東1kmにある脇屋館跡に行ぐとすっきゃ・・・って、実は過去に何度か探しにきたことあるんだけんど、辿りつけなかったんさ。ネットの情報を便りにやっとめっけたで!!
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「脇屋義助公居館跡」の碑

 円福寺茶臼山古墳の国良親王御陵の石碑と同じ造りなんで戦前に建てられたもんなんかな。ネットの情報でみっとこの周りは一面の畑だったんに、最近すぐ裏に住宅も建てられたみてぇ。だいぶこの辺りも宅地化されてるんだねぇ。

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b0004675_0545276.gif  脇屋山正法寺 (Yahoo!ロコ)
 「脇屋義助公居館跡」の碑 (Yahoo!ロコ)

by dr_suzuki | 2014-08-04 17:27 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2014年 04月 28日
篠塚稲荷神社 (東京都台東区柳橋)
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篠塚稲荷神社 (台東区柳橋)

 先週土日は東京・秋葉原で研修。終日座学で会場に缶詰でツラかったぃ。終了したら脱兎の如く会場から退散。16年ぶりの秋葉原は、おーか変貌しちゃってて、はぁオレの知ってる街じゃねんで違和感ありまくりだしなぁ。じゃあ目星を付けてたあそこに行ってみんべぇか。・・・東京で新田氏関連史跡巡り~!

 今日の目的地は「篠塚稲荷神社」さね。

 はぁ?何なん?それ?だんべ(笑) オレも最近まで知らなかったんさ。去年、新田義貞公の豪勇の家臣・新田四天王の一人・篠塚伊賀守重廣の廟とか行ぐんで調べてた時に、縁の神社が台東区柳橋にあるって知ったんで、東京に行ったらここに行ぐんべ!っと決めてたんさね。

b0004675_1655411.jpg 秋葉原駅からJR総武線で1駅、浅草橋駅へ。iPhoneにGoogleMapで案内させ、歩くことわずか約2分・・・フツーの街の一角に、忽然と神社が、アッタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!


まずは参拝!

社殿を見っと
絵図が貼られてて・・・良く見っと・・・おおっ!!これは!

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台東区に新田義貞公!━━(゚∀゚)━━!! し か も ネ申イ象
それに栗生左衛門と篠塚伊賀守(新田四天王のうちの2人)


由緒とかの説明があるプリントがあったんでもらってきたで。(家で撮影)
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b0004675_166410.jpg このプリントの裏にも載ってるけんど、境内の石碑に、この篠塚稲荷神社の由緒があるんさ。引用して打ち込んでみんべぇ。
当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神仏分離の際玉蔵院は廃せられた。
古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。

 周囲に宿敵・足利勢がわんさかいた武蔵の地で、よくぞ新田家の再興の祈請を日々続けてたとはすげぇじゃねーきゃ!さすが忠臣・篠塚伊賀守重廣!

b0004675_1656292.jpg 狭ぇ敷地ながら立派な鳥居、手水鉢まであって、社殿もキレイで整備もゆき届いてるじゃねぇきゃ。東毛の神社とは大違い。 いやぁこの地で地元の方々に大切にされてるんだぃなぁ。篠塚伊賀守も喜んでるだんべ。柳橋の皆さん、グッジョブ!


b0004675_166196.jpg 帰ぇりは、都営浅草線・浅草橋駅(神社から徒歩2分弱)で浅草駅に行って、ぶらり浅草。雷門満留賀で「花巻そば」(かけ蕎麦に焼き海苔を揉んで散らしたもの)を食って、舟和の芋ようかんをお土産に買って、東武浅草駅から特急「りょうもう」で、新田の地へ帰ぇってきたで・・・あぁオレはやっぱ群馬がいいや。


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篠塚稲荷神社 (台東区柳橋) (Yahoo!ロコ)

【参考サイト】
篠塚の郷を歩く (邑楽郡邑楽町篠塚) (この拙ブログ)
篠塚稲荷神社|台東区柳橋の神社 (猫のあしあと) (2014年4月28日アクセス)
 

by dr_suzuki | 2014-04-28 17:07 | 群馬を離れて | Trackback | Comments(0)
2013年 11月 07日
篠塚の郷を歩く (邑楽郡邑楽町篠塚)
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篠塚伊賀守重廣公御廟(宝篋印塔)(邑楽郡邑楽町篠塚)

 せっかくの乗り鉄の旅・・・邑楽町の新田氏関連史跡巡りを計画してみたで。

 新田義貞公の側近のうち、栗生顕友畑時能由良具滋、そして篠塚重廣の勇猛な忠臣4人を新田四天王と呼ぶんさね。そのうち篠塚の地に拠点を張っていたんが、篠塚伊賀守重廣さね。祖先は鎌倉時代初期に畠山重忠の乱で北条氏によって滅ぼされた畠山重忠とされてるんみて。(源義経の有名な「鵯越え」で馬を背負って崖を駆け下ったとされる武将)

 篠塚伊賀守は『太平記』では、小手指原の戦いで単身敵陣に夜襲をかけ、2m以上もある金撮棒を振り回し敵を壊滅させたり、分倍河原の戦いで義貞公の窮地を救ったり、箱根竹ノ下の合戦では敵を放り投げ、飛び蹴り(ドロップキック)をくらわし、三井寺の合戦では怪力で橋を掛ける、などなど、軍記物だけに脚色はあるにせよ、長身で怪力無双で八面六臂の大活躍の猛将として書かれてるで。鎌倉攻めの功績により 後醍醐天皇から伊賀守を賜ったんだと。義貞公没後は、四国に転戦し、世田城落城の後に、常陸国波崎に上陸、篠塚稲荷社を経て武蔵国足立郡下(菖蒲町付近)に潜伏したとされてらぃね。

 そんな篠塚伊賀守のゆかりの郷を歩ってみんべぇか。

 篠塚駅から、県道152号線に沿って南下すっと、まもなく左手に「篠塚伊賀守重廣公御廟」があるで。
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現地説明板・反射する金属製なんで斜め横から

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碇石(レプリカ)・詳しくは碑文で

 近くの伊賀守縁の大信寺に行ってみた。事前にググった情報では、ここには本堂横に篠塚伊賀守の等身大パネルが飾ってあったらしいんだけんど・・・はぁなかったぃorz 期待してたんになぁ。
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大信寺本堂

b0004675_1322480.jpg ここには朱く塗られた青面金剛が2基あるんさ。如意輪観音の供養塔もあるんだけんど、十九夜待か二十二夜待か彫られてねんだよなぁ。この辺りが十九夜待と二十二夜待との文化の境界になってるんでぜひ知りてぇやぃ・・・如意輪観音横には平成20年まで念仏講が伝わってたらしいとの説明文があったぃね。(ということは、はぁ廃れちゃったってこと?惜しいやぃねぇ。)


 大信寺をあとにして、さらに南下して国道354号を渡って、かつての篠塚城跡の一角とゆう八幡神社を探しに行ってみた。県道から西に入ぇてみっとあっけなく発見したで。
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篠塚・八幡神社

b0004675_13215467.jpg 「八幡神社 太平記の里 平成三年三月 邑楽町教育委員会」の標があるんだけんど・・・鳥居はなんだか傾いちゃっているし、篠塚城跡と手描きの札が掛けられた絵馬を懸ける所も見事に半壊状態・・・社殿横の土盛は土塁なんきゃ?辺りはすっかり住宅地になってて、城跡らしい風情は全くなくなってるし。

 ネットの情報だと、近くには当時の大手門付近の毘沙門堂とゆうんもあるらしいんだけんど、案内はねぇし、ありそうな場所は、どう見ても人んチの裏手の林の中みてぇなんで、今回は行ぐんは遠慮したぃね。


 なんだか中途半端に終わっちまった散策を切り上げ、来た県道152号線を北上、篠塚駅まで引っ返ぇし、また乗り鉄の旅を続けたぃね。

※篠塚駅からの県道152号は歩道が満足に整備されてねぇし、見通しの悪りぃ緩いカーブもあって、大型車もひっきりなしにビュンビュン通るんで、歩行するんは十分注意してくんなぃ。篠塚伊賀守重廣公御廟も駐車場はねんみて。(そこの県道脇に停めたらすんげぇ迷惑だかんね)

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篠塚伊賀守重廣公御廟 (このあたり:Yahoo!ロコ)
八幡神社 (このあたり:Yahoo!ロコ)

【参考文献】
『太平記』
浄土宗大信寺 篠塚伊賀守  (2013年11月7日アクセス)

by dr_suzuki | 2013-11-07 13:29 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2013年 09月 28日
藤袴咲く玉巌寺 (太田市東金井町) 【藤袴】
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藤袴咲く玉巌寺 (太田市東金井町)

 花図鑑に秋の七草を揃えんみっかと思ったんだけんど、藤袴(フジバカマ)ってどこに咲いてるんかねぇ。太田市の秋の七草寺で「藤袴のお寺」になってる東金井の玉巌寺なら、咲いてるんじゃねーかって思って行ってみたで。

b0004675_0545276.gif  金山東麓の山間の静寂の中にある玉巌寺。寺伝は現地説明板の画像を撮ってきたんで見てもらうとして、特筆すべきは「堂内には新田義貞、義顕、義興、義宗、横瀬貞国公の御位牌厨子が安置されており」とあるで!本堂の屋根には大中黒の紋もあったぃね。ここは旧山田郡領分なんに新田氏を手厚く弔うお寺があったんだねぇ。オレも全く知らなかったで。

 本堂や虚空蔵堂の前には藤袴がいっぺぇ咲いてたぃね。とゆーか藤袴って間近にじっくりみたんは初めてさね。なぜかホタルガ(蛍蛾:Pidorus glaucopis)がいっぺぇ飛んでたぃ。ここで無事藤袴やシュウカイドウの画像を収めたんで花図鑑・第12集が完成したぃね。

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現地説明板

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 玉巌寺 (Yahoo!ロコ) 

by dr_suzuki | 2013-09-28 13:28 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2013年 08月 05日
桐生織物記念館・新田義貞公 中黒古旗複製制作展 2013
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桐生織物記念館(桐生市永楽町)
復元中黒古旗、アッタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 仁田山(現桐生市川内町)のあしぎぬを朝廷に献上して1300年余、織都千三百年を記念し、義貞公が川内地内で造られ、鎌倉討幕の際に掲げたとされる軍旗(太田市の新田神社に所蔵・平成22年に70年ぶりに公開)を、桐生織物協同組合が当時の手法で復元したっつーんで見に行ってみたで。当時の糸や織り方などを県繊維工業試験場が詳細に再現したんだと。

 桐生じゃ義貞公のネームバリューは今ひとつだんべけんど(今の桐生市の核となった桐生新町自体が、江戸時代に造られた計画都市で鎌倉や南北朝時代のもんがねぇかんなぁ)、今の川内地区は東禅寺角塔とかあるんで、当時、新田氏とおーか関連があったんじゃねぇかと思わぃね。

 街では賑やかに桐生八木節まつりが行われてた4日夕方、桐生織物記念館へ。レトロな建物。前は何度も通ったことあるんだけど実は入ぇるんは初めて。しかしみんな祭りのほうに興味あるんだか、軍旗の見学者はオレ一人だけ!

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思ってた以上に薄しぃやぃなぁ。文字はもちろん手書き

 十分に軍旗を堪能~!触れられる生地もあったんだけど、予想以上に薄くって、そして肌触りが硬ぇ感じんさね。 できたら量産してもらって、鏑矢祭の時に生品神社境内に大量に翻してほしいやぃなぁ。暖簾とかタペストリーにして商品化したら新田エリアじゃ売れるんじゃねんきゃ?

 b0004675_0545276.gif 軍旗の展示は、8月11日(日)まで。ぜひホンモノをみてくんなぃ!
 いちよー新田氏モノなんで史跡じゃねぇけんど「新田氏関連史跡めぐり」に分類しとくか。

 せっかくなんでお祭りをぶらついて帰ぇってきたぃ。昔と比べっとまぁず露店の数が少なくなったぃなぁ。まぁオレは軍旗みるんが目的だったからいーけんどね。

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桐生織物記念館/階段もレトロ/まっと義貞公が桐生でメジャーになれますように
入り口の鮮やかな着物/入口左・KiryuTextile/こんなポスターもあるんだー!
本町5丁目の櫓/露店・うなぎつりどり・・・釣れるんきゃ?/志多美屋支店ソースかつどん


by dr_suzuki | 2013-08-05 12:03 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2013年 01月 16日
百品神社 (みどり市笠懸町鹿)
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百品(いくしな)神社(笠懸町鹿・鹿田(小仁田))

 日曜日、新田新春健康マラソンが終わった後、天気も穏やかなんで、最近凝ってる「疱瘡神」の石祠を探しに笠懸地区を廻ってみたんさ。まずは久宮(桃頭宮東)の神明宮、西鹿田の金山神社を行脚。そして3ヶ所目、鹿田・小仁田の「百品(いくしな)神社」へ。生品(いくしな)神社は旧新田郡には、有名な市野井の生品神社をはじめ、阿左美や藪塚や富沢にもあっけど、「百品」で「いくしな」ってゆうんだねぇ。

b0004675_16415370.jpg 初めて行ってみたんだけんど、ちゃんと参道があるで。しかも幟がいくつも立ってるし!境内も整備されてるし、結構立派な神社じゃねーきゃ!

(翌々日の火曜日の桐生タイムスで知ったんだけんど、この日のオレがここにちょうど行った時間頃、百品神社の氏子の方々により、鹿の通称・大田んぼで「どんど焼き」が行われてたらしいんさね。中毛ではフツーな「どんど焼き」も、東毛じゃあんまやるところがねんだけんどね)



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百品神社・拝殿


b0004675_16503640.jpg 拝殿西に由緒記の刻まれた平成二十年銘の石碑があらぃね。碑文が彫られてるんだけんど、石がまぁず磨かれてて光沢があるんで反射しちゃって読みづれぇのなんの。一応画像に納めてきたんだけんど、拡大しても読みづらくって、解読してテキストに打ち込むんに、えれぇ時間がかかっちゃったぃ。

百品神社の由緒
 祭神 大穴牟遅神
当社は大穴牟遅神を祭神として祀り新田義重公の崇敬厚く館の守護神として鹿田館邸内に勧請され元弘三年(西暦1333)には新田義貞公が祠前に義旗を挙げ鎌倉攻めに向かったことから戦の神さまとして信仰され、また、安産の神さまとしても長年にわたって信仰され当社に祈願した者や氏子中には難産に遭遇した者はいないとも言われ、難から守ってくれる神の意から家内安全交通安全の神さまとしても信仰が集まっている。昭和三十年代までは樹齢三百年を超える大杉が静寂の境内に凛としてそびえ雲を突かんばかりのその様は近郷随一と称され、枝を鳴らす風の音は、四季の移ろいを告げ里人たちのくらしに指針を与えた

 ここにも新田義貞公挙兵伝説━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 鹿田赤城神社の神官だった石原義令氏が、昭和初期の郷土史誌『上毛及上毛人』『毛野』『毛野時報』なんかで、ここを挙兵伝説地として紹介してるんさね。(他にも笠懸には鹿田丘陵道帰りの新田義貞公陣所址とか義貞公伝説が多数あるんだぃね)でも笠懸の地名を氏姓にもった新田一族は「太平記」の中にもあんま出てきねぇし、ここを挙兵地にするんは、いささかの無理があるような気がするんだけんどなぁ。まぁそれだけ旧新田郡の人たちが、義貞公を敬愛してたってことなんかもしんねぇけんど。

 境内にそびえてたっつー大杉も、かつてはこのあたりのランドマークだったんだんべなぁ。

b0004675_16415150.jpg 参拝した後、社殿の裏に廻り、目的に末社の疱瘡神の石祠を探してみたで。石祠4基あり。『笠懸村誌・別巻ニ』(1983)だと、ここにありとの記載があるんだけんど、笠懸の石祠はどこも「疱瘡神」の銘が彫ってねぇやぃなぁ。資料からの消去法で、天王宮の隣の向かって一番右の石祠が「疱瘡神」じゃねぇんかと推定したんさ。(あるいは向かって左から2番めのものなんかなー?)「疱瘡神」も現在、旧新田・山田郡地域で分布を調査中さね。

 有志とまとめてる医療系石造物のGoogleMapはこちら。 (Work in progress)


 百品神社 (Yahoo!ロコ)

 b0004675_0545276.gif いちよー、伝説地だけんど新田氏関連史跡めぐりタグにも分類しとくかね。

by dr_suzuki | 2013-01-16 17:07 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2012年 11月 05日
東禅寺角塔 (桐生市川内町)
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東禅寺角塔 (桐生市川内町)

 11月の連休2日目。まっさか朝から良い天気だったんで、午後に思い立って、前から行ってみっかと思ってた桐生市川内町1丁目の東禅寺に行ってみたで。

 ここには新田義貞公と関係があるらしいっつー「角塔」があるらしいんさ。

b0004675_1733188.jpg 車で参上。川内あたりは紅葉始まってっかなぁと思ってたんだけんど・・・いまひとつ。東禅寺到着・・・って、いやぁ東禅寺は予想以上に立派な古刹。立派な本堂。墓地もおーか広ぇし。どこに「角塔」があるんかなぁと探すことしばし。おおっ、その広ぇ墓地の一角に「角塔」があったで。


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角塔婆 一基(高さ87cm)
(1338;建武5年(北朝年号)/延元3年(南朝年号))
左側面に建武五年と彫られてるそうだぃね。(オレはよくわかんなかった)

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現地説明板


 それにしてもどうしてこの旧山田郡の地に、義貞公関連と思わせる角塔があるんだんべか?

 ググってみっと・・・

b0004675_17142949.jpg 東禅寺を紹介したホームページ によれば
 現在の群馬県世良田にある長楽寺は、その昔臨済禅の名刹であり、常に数多くの雲納、僧侶が参集し、修行伝道の大道場であった。時の長楽寺単寮より法を受けた南海宝州は上州小倉村に来錫し字釈迦堂に小庵を結び郷民の摂化伝道に勤め、後に当地に堂宇を建立し、縁師仏乗禅師を勧請し瑞雲山東禅寺を開創したのである。時に正中2年(1325年)3月であった。
 降って建武3年(1336年)新田義貞公は、出兵に当り園田七郎秀成の実子園田四郎左衛門尉秀澄を家臣に加え、一族の戦勝を祈念して東禅寺へ「毘沙門天像」を寄進し、寺領を奉納した。しかし武運つたなく建武5年(1338年)7月両者共に戦死した。市指定文化財「建武の碑」は、その供養塔と思われるものである
 だそうだぃね。

 こないだ(2012年5月)新田神社に遺されてる義貞公の旗揚げの際に使われたっつー中黒の軍旗は、現桐生市川内町内で織られたとされる仁田山紬を旗印に用いたらしいって記事が桐生タイムスに載ってたんさ。 そんときはなんで川内町が新田義貞公と関係あるん?って思ったてたんだけんど、川内地区と新田一族はやっぱ深けぇ関係があるんかもなぁ。

 東禅寺のこの角塔のちっと東っから、桐生市民愛する吾妻山に登るルートがあるんだと。今は吾妻山への登山ルートはもっぱら桐生市街からだけんど、『山田郡誌』 (1939:昭和14年)から、以下に引用するように(太字はオレが強調)昭和の頃まではこっちが本道だったらしいで。

吾妻山
 川内村大字東小倉字吾妻澤の東に峙立し、嶺東は桐生市に属す、鳴神山脈中の名山なり、海抜四八一米。山骨は古生層の珪岩より成り、山頂は所謂球状山頂にして頂上に石祠を存す。この石祠は上野國志に「東權現 桐生の西北高山の上にあり、祭日本武尊」とある吾妻神社なり、本社は明治三十年廃社となる。この山は桐生市の附近にては比較的高山なるを以てその名夙に著る、近時学生等の登山するもの年と共に多きを加ふ。登路は四條あり、西方川内村大字東小倉字吾妻澤より登るを本道とす、他は東方桐生市光明寺澤及村松よりするもの及南方小倉峠より尾根傳ふに上るものなり、この中につき東方光明寺澤より登る時は緩傾斜坂と急坂とを二囘重ねて頂上に達すべし、この急坂の所在は斷層崖を示すものならん
 実は・・・オレはまだ吾妻山は未登頂なんで、もし登る機会があったら、桐生市街からじゃなくって、ぜひこの「本道」から登ってみてぇやぃな。

 あと東禅寺に行ったもうひとつの目的は・・・『上州の近世石造物2』(1986)に宝永7年(1710)の青面金剛があると記載されてるんで、それも探しにいったんだけんど・・・見つかんなかったぃねorz 広すぎてどこにあるんかわっかんねぇやぃな。

 いちよー「新田氏関連史跡巡り」タグにも加えとくかね。

b0004675_23314267.gif 東禅寺 (Yahoo!ロコ)



【参考文献&サイト】
『山田郡誌』 (1939)
『上州の近世石造物2』 (1986)
臨済宗 瑞雲山 東禅寺 (桐生仏教会公式サイト)
東禅寺角塔 (桐生市ホームページ)

【追記】
せっかくなんで「本道」から吾妻山に登ってみたで。
 川内・東小倉から吾妻山へ ~ 古の吾妻山本道を行く (2012/12/2)

by dr_suzuki | 2012-11-05 17:43 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)