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2024年 09月 21日
中野城跡 (神光寺) (邑楽郡邑楽町中野)
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広学山神光寺(邑楽町中野):大カヤが聳える

 秋雨前線のせいで曇天の21日、鎌倉時代の文永2年(1265)に新田一族である中野景継が築いた居館跡と云われる、邑楽町中野にある神光寺に行ってみたで。

 こないだ敦賀に行ったんで、改めて「太平記」を読んでみっと、越前藤島で義貞公が無念の戦死を遂げた時に、最後まで義貞公に付き従い討死を遂げた中野藤内左衛門つっつー中野景継の子が出てくるんさね。

 太平記巻20「義貞自害事」の段はこう記す。
(前略)其時分黒丸ノ城ヨリ、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将ニテ、藤島ノ城ヲ攻ケル寄手共ヲ追払ハントテ、三百余騎ノ勢ニテ横畷ヲ廻ケルニ、義貞覿面ニ行合ヒ給フ。細川ガ方ニハ、歩立ニテ楯ヲツイタル射手共多カリケレバ、深田ニ走リ下リ、前ニ持楯ヲ衝双テ鏃ヲ支テ散々ニ射ル。義貞ノ方ニハ、射手ノ一人モナク、楯ノ一帖ヲモ持セザレバ、前ナル兵義貞ノ矢面ニ立塞テ、只的ニ成テゾ射ラレケル。中野藤内左衛門ハ義貞ニ目加シテ、「千鈞ノ弩ハ為■鼠不発機。」ト申ケルヲ、義貞キゝモアヘズ、「失士独免ルゝハ非我意。」ト云テ、尚敵ノ中ヘ懸入ント、駿馬ニ一鞭ヲスゝメラル。此馬名誉ノ駿足ナリケレバ、一二丈ノ堀ヲモ前々輒ク越ケルガ、五筋マデ射立ラレタル矢ニヤヨハリケン。小溝一ヲコヘカネテ、屏風ヲタヲスガ如ク、岸ノ下ニゾコロビケル。義貞弓手ノ足ヲシカレテ、起アガラントシ給フ処ニ、白羽ノ矢一筋、真向ノハヅレ、眉間ノ真中ニゾ立タリケル。急所ノ痛手ナレバ、一矢ニ目クレ心迷ヒケレバ、義貞今ハ叶ハジトヤ思ケン、抜タル太刀ヲ左ノ手ニ取渡シ、自ラ頚ヲカキ切テ、深泥ノ中ニ蔵シテ、其上ニ横テゾ伏給ヒケル。越中国ノ住人氏家中務丞重国、畔ヲ伝テ走リヨリ、其首ヲ取テ鋒ニ貫キ、鎧・太刀・々同ク取持テ、黒丸ノ城ヘ馳帰ル。義貞ノ前ニ畷ヲ阻テゝ戦ケル結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬ヨリ飛デ下リ、義貞ノ死骸ノ前ニ跪テ、腹カキ切テ重リ臥ス。(後略)
 中野藤内左衛門が云った「千鈞ノ弩ハ為■鼠不発機=千鈞の弩は鼷鼠の為に機を発たず」ってゆうんは、「大志を抱く者は、些細な事には心を動かさない」だそうだぃね。さしずめ「こんな雑魚どもなんか相手にしないで、大義を果たすために撤退なさいませ!」と諫言したんだんべなぁ。なかなかの忠義者っつー書かれ方じゃねーきゃ。まぁ結局は義貞公は「お前らを見捨ててひとり退却なんかしねぇ!」と敵前に突っ込んで匹夫の矢に撃たれて命を落とちまうんだけんどね。「太平記」は軍記物なんで、どこまで真実なんかはわかんねぇけんど、
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参道にある説明版 手書きでカスレ気味

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山門前横の十九夜塔(大正5年:1916)
20世紀初頭は中野でも月待講が盛んだったことがわかる
旧新田郡エリアは二十二夜塔が多いんだけんどね

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立派な山門

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山門横に 大カヤ(県指定天然記念物)
中野館の名残がこの大カヤなんだそうだぃね
樹齢約800年ちょっと(推定)らしいで

 カヤは確かに大きくって歴史を感じるんだけんど、境内がきれいに整備されてて、はぁ城の遺構がどこにあるんかわかんなかったよ。城マニアな方々なら何かめっけられるんかな。




by dr_suzuki | 2024-09-21 21:18 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)


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