称念寺(しょうねんじ)福井県史跡 新田義貞公御墓所
太平記 巻二十では義貞公が自害したあとをこう記す
軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。
「尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ」て弔われたんが、この称念寺だそうだぃね。
日が暮れる前に称念寺へ急ぐ。近くでは北陸新幹線の工事が行われてて、カーナビの案内がビミョーに違ってるとこもあってまぁず悩んだよ。しっかし燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地までまぁず距離あんなぁ。4kmぐれぇあったんじゃねーきゃ。尸骸(亡骸の胴体部分)を輿に載せてぐんも大変だったんべなぁ。
称念寺に到着。事前にお寺のホームページを見ると、義貞公推しだったんだんで、さぞかし義貞公一色かと思いきや・・・
明智光秀公ゆかりの寺・・・(´Д` ) 来年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀が不遇の浪人時代にこの称念寺に身を寄せてたことがあるらしく、義貞公より、全面的な明智光秀推し!!あぁ無念なり!おそるべし大河ドラマの影響力!
あの松尾芭蕉もここに立ち寄り(1689)、明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ句の碑も建ってるで。来年の大河のときに絶対出るな、これ。
天保8年(1837)新田義貞公500回忌に
福井藩主松平宗矩が建立した高さ2.6m余りの五輪石
塔下2段は旧墓石
藪蚊がいっぺぇ
称念寺本堂:
明智光秀の幟が・・(´Д` )
せっかくだから明智光秀の現地案内板も載せとく
称念寺案内板:ここも明智光秀が優勢に!
住職の書いた文献が本堂前にあったんで、購入してきたで。
寺の隣では北陸新幹線が建設中だったぃ。
【参考文献・サイト】
称念寺(公式)
「新田義貞公と時宗・称念寺」高尾察誠 2016
来年の大河ドラマは「麒麟がくる」で明智光秀だけんど、再来年の「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一なんだと!渋沢翁は昔は新田庄の血洗島出身だかんなぁ。再来年はぜひ義貞公全面推しに戻ってくんなぃ(笑)
これで念願の福井の義貞公の関連史跡を3ケ所巡れたし、雨降りだったんは残念だったけんど、いやぁ実に有意義な旅だったぃ。いつか杣山城や金ヶ崎城や木の芽峠もぜひ行ってみてぇなぁ。でも東毛から500kmあって、車じゃまっさか遠かった。次はぜひ北陸新幹線がいーなぁ。
福井・新田義貞公関連史跡めぐり 2019 ~完