百品(いくしな)神社(笠懸町鹿・鹿田(小仁田))
日曜日、新田新春健康マラソンが終わった後、天気も穏やかなんで、最近凝ってる「疱瘡神」の石祠を探しに笠懸地区を廻ってみたんさ。まずは久宮(桃頭宮東)の神明宮、西鹿田の金山神社を行脚。そして3ヶ所目、鹿田・小仁田の「百品(いくしな)神社」へ。生品(いくしな)神社は旧新田郡には、有名な
市野井の生品神社をはじめ、
阿左美や藪塚や富沢にもあっけど、「百品」で「いくしな」ってゆうんだねぇ。
初めて行ってみたんだけんど、ちゃんと参道があるで。しかも幟がいくつも立ってるし!境内も整備されてるし、結構立派な神社じゃねーきゃ!
(翌々日の火曜日の桐生タイムスで知ったんだけんど、この日のオレがここにちょうど行った時間頃、百品神社の氏子の方々により、鹿の通称・大田んぼで「
どんど焼き」が行われてたらしいんさね。中毛ではフツーな「どんど焼き」も、東毛じゃあんまやるところがねんだけんどね)
百品神社・拝殿
拝殿西に由緒記の刻まれた平成二十年銘の石碑があらぃね。碑文が彫られてるんだけんど、石がまぁず磨かれてて光沢があるんで反射しちゃって読みづれぇのなんの。一応画像に納めてきたんだけんど、拡大しても読みづらくって、解読してテキストに打ち込むんに、えれぇ時間がかかっちゃったぃ。
百品神社の由緒
祭神 大穴牟遅神
当社は大穴牟遅神を祭神として祀り新田義重公の崇敬厚く館の守護神として鹿田館邸内に勧請され元弘三年(西暦1333)には新田義貞公が祠前に義旗を挙げ鎌倉攻めに向かったことから戦の神さまとして信仰され、また、安産の神さまとしても長年にわたって信仰され当社に祈願した者や氏子中には難産に遭遇した者はいないとも言われ、難から守ってくれる神の意から家内安全交通安全の神さまとしても信仰が集まっている。昭和三十年代までは樹齢三百年を超える大杉が静寂の境内に凛としてそびえ雲を突かんばかりのその様は近郷随一と称され、枝を鳴らす風の音は、四季の移ろいを告げ里人たちのくらしに指針を与えた
ここにも新田義貞公挙兵伝説━━━━(゚∀゚)━━━━!!
鹿田赤城神社の神官だった石原義令氏が、昭和初期の郷土史誌『上毛及上毛人』『毛野』『毛野時報』なんかで、ここを挙兵伝説地として紹介してるんさね。(他にも笠懸には
鹿田丘陵道帰りの新田義貞公陣所址とか義貞公伝説が多数あるんだぃね)でも笠懸の地名を氏姓にもった新田一族は「太平記」の中にもあんま出てきねぇし、ここを挙兵地にするんは、いささかの無理があるような気がするんだけんどなぁ。まぁそれだけ旧新田郡の人たちが、義貞公を敬愛してたってことなんかもしんねぇけんど。
境内にそびえてたっつー大杉も、かつてはこのあたりのランドマークだったんだんべなぁ。
参拝した後、社殿の裏に廻り、目的に末社の疱瘡神の石祠を探してみたで。石祠4基あり。『笠懸村誌・別巻ニ』(1983)だと、ここにありとの記載があるんだけんど、笠懸の石祠はどこも「疱瘡神」の銘が彫ってねぇやぃなぁ。資料からの消去法で、天王宮の隣の向かって一番右の石祠が「疱瘡神」じゃねぇんかと推定したんさ。(あるいは向かって左から2番めのものなんかなー?)「疱瘡神」も現在、旧新田・山田郡地域で分布を調査中さね。
有志とまとめてる医療系石造物のGoogleMapは
こちら。 (Work in progress)
百品神社 (Yahoo!ロコ)
いちよー、伝説地だけんど新田氏関連史跡めぐりタグにも分類しとくかね。