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2011年 09月 24日
里見の郷を歩く ~ 里見山光明寺 (高崎市中里見町)
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里見山光明寺 (高崎市中里見町)・参道に彼岸花咲く

里見の郷を歩く ~ 里見山光明寺 (高崎市中里見町)_b0004675_16181818.jpg 鎌倉時代の里見義俊(?~1170)の供養のために建てられたとされる里見氏の菩提寺。義俊が館を構えたところともゆわれているんだと。ここには「新田義貞公旧里碑」が建てられてるって聞いたんで寄ってみたんさ。(見物するんで家族を車中に置き去り(笑))

 立派な参道。これまでに見たことねぇような立派な像容の青面金剛(右)や数々の石仏もあるで。この地域の名刹であることがよくわからぃな。


 山門をくぐって、左手に・・・
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「新田義貞公旧里碑」の案内・・・飛び石を右に折れて

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「新田義貞公旧里碑」
伝承を元に明治23年8月、里見水戸之介氏が全国から浄財をつのり建立したんだと。
でもちっとかすれてるし、漢文だし・・・orz とても読みきれねぇ!

 里見の地では、前の記事にもあったように「里見氏五世忠義の子として生れ、幼名を里見小五郎といったが宗家新田朝氏に子がなかったので、その養子となり小太郎義貞と改名した 」とゆわれているみてぇだね。

 『太平記』で記述されてる義貞公の生品神社の旗揚げの時にも里見五郎義胤の名がみえるんさ。新田氏の始祖・義重の長男義俊の子孫・義胤が他の東毛の新田一族と共に旗揚げしてるんは興味深けぇやぃな。(東毛の新田一族以外の他の武者は桃井次郎尚義っきゃいねぇし) 養子云々は別にして、里見一族は、分家の後にも新田宗家と深けぇ関係を維持してたんじゃねんかと思うで。

小説『新田義貞・上』の中で、著者・新田次郎氏は以下のように解説してらぃね。(町名は当時)

 (前略)
 新田氏研究家たちの歴史学的一般論としては、義貞の生年月日とその母の名は不詳ということになっている。しかし、私はこの羽田系図になる義貞の母を創作の中で生かし、小説全体を光彩あるものにしようと考えた。
 義貞の誕生の地については、
 宝泉村由良の台源氏館(現在太田市)
 生品村反町館(世良田館) (現在新田郡新田町)
 碓氷郡里見郷(現在榛名町)
の三説がある。各れも伝説であって、史料の裏付けがない。
 このうち、第三の里見郷出生説は、『新田正伝記』及び里見氏系譜に、里見義秀の長男忠義の子義貞が宗家の新田朝氏の養子になったと記されているのに端を発している。
 この義貞養子説は以外なほど広く流布されていて、藤島神社の新田氏系図にもそのように記されている。だが、この養子説は疑義を抱く学者が多く、群馬県教育会発行『群馬県史』においては取るに足らずと否定されている。『新田氏根本史料』には新田氏関係の八つの系図が入っているのに、この里見系図だけは入れていない。養子説は多くの学者によって否定されたが、誕生地については未だに明らかでない。里見郷はまさに桃源郷そのままのようなところである。いたるところに、義貞誕生にちなむ多くの遺跡や伝説が残っていた。烏川の清流で産湯を使った義貞が、長じた後もしばしばこの土地に来て武芸にはげんだという伝説も、雄大なる榛名の山を背景にした美しい風土と、厚い人情に思いあわせて考えると、いかにも真実らしく思われた。
 太田市の由良で、畑地に盛り土をし、その上に立てられた「新田義貞公誕生之地」という碑を見た時と、里見の郷に立った時ではなはなだしい感懐の相違があった。台源氏由良館跡には堀跡らしいものがあっただけで、館跡を証明するものはなにもなかった。
 反町の新田館の跡はそのまま残され、義貞がここで生まれたとしても、おかしくはないが、小説の上の義貞誕生の舞台とするにはなにか私に躊躇させるものがあった。私は義貞養子説は取らなかった。そのかわり、義貞の母が里見義秀の女(むすめ)であるという説を取り、里見郷の義秀別邸(義秀は当時新田庄竹林にいた)に於て出生したという新説を創り上げた。
 新田次郎氏の「ロマンあふれる里見の地」とゆう絶賛から比べっと、新田は見事に「小説の舞台にはそぐわない地」とバッサリ切って捨てられた感じ・・・子供の頃『新田義貞』を読んだ時に、少年時代が(当時は全く知らねぇ)里見周辺のことべぇで、当時から新田氏に耽溺してたオレは「義貞公の幼少時代も新田周辺じゃねんきゃ!?なんだかなぁ・・・」と少なからず不満に思った記憶があったぃな。

 義貞公養子説・・・果たしてその真相や如何に?

(おまけ)
境内には先日群馬県名誉県民に推挙された大勲位・中曽根康弘翁の句碑もあったで。
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くれてなお 命の限り 蝉しぐれ


 この後は家族の罪滅ぼし?に高崎駅のイーサイトを見物、「群馬いろは」に寄って帰ったぃね。

 秋の里見周遊編、これにて了。

 里見山光明寺 (ちず丸リンク)

 さとみ物語 (館山市ホームページ) 
 
【参考文献】
 『新田義貞・上』 新田次郎 p29-31 新潮文庫 1976

by dr_suzuki | 2011-09-24 16:27 | ぐんま | Trackback | Comments(5)
Commented by sanzokuame at 2011-09-25 03:07
新田氏深耕(信仰?^^)がだんだんと全県区になってきましたね。
すずきさんの東毛以外の取材は新鮮味があってワクワクします。^^
こっち方面で協力できることがありましたら何なりと。
齢93の大先生の街もくまなくご案内いたします。
Commented by dr_suzuki at 2011-09-25 08:30
▼三束雨さん
次は高崎寺尾にすっか。山歩きになっから、虫のいねぇ冬がいーかね。それまでにまた資料読みこんどくよ。案内よろしくたのまい!
Commented by tatoi at 2020-07-13 23:58
里見水戸之介(=己豊之介)は、異父兄弟の後見人。この時、里見直系は両親を幼い頃に亡くした為、育ての親として後見人が無くてはならなかった。=己豊之介が後見人として入らざるを得ない。しかし、里見直系は生きているにも関わらず末裔に相談なく、里見水戸之介(=己豊之介)の独断により「新田義貞公旧里碑」、「中曽根康弘翁の句碑」を建てている。
そして、里見直系家系図によると義貞は、三男であるから養子に出しやすかったと思われる。母の詳細は不明だが、系図には「義貞ー里見小五郎○新田朝氏ノ後ヲ嗣グ」と記されている。新田一族と里見直系で作製された「新田一門史」を確認できれば詳しく知ることができるかと。
Commented by dr_suzuki at 2020-07-15 10:24
▼tatoiさん
10年近く前の記事にコメントあんがと~!
義貞公の出自は、昨年(2019)の県立歴史博物館での「大新田氏展」でも新説が出てたよ。
Commented by tatoi at 2020-07-15 23:34
ご挨拶もなく突然のコメント失礼致しました。自身のルーツを調べる中で、こちらのブログを拝見しました。水戸之介によって建てられたもの、退けられた里見本家先祖の位牌に関しては、里見本家直系血族、傍系血族末裔、共に異議申し立てしたにも関わらず実行されてきた事を、悲しく思い今日に至りました。代々引き継がれた事実と現実の差に呆然としておりまして、思わずコメントをさせて頂きました。義貞公に関しましては、大新田氏展の資料を改めて拝見したいと思います。教えて頂きまして、誠に有難う御座います。こちらのブログのお陰で、更に確信をもつキッカケができました。


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