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2015年 07月 08日
鹿の川・赤城神社の「大演習記念」石灯籠 (みどり市笠懸町鹿)
 一部のマニアな方々(笑)にお贈りする、久々の「東毛の戦争遺跡」シリーズ。

b0004675_17183561.jpg この間、ウェザーニュース・タッチで七色の紫陽花の画像というミッションがあったんで、色とりどりの紫陽花が咲いてる穴場、笠懸町鹿・鹿の川(かのがわ)の赤城神社に行ってみたんさ。(ミッションで撮った画像を元にした花図鑑・紫陽花 2015 はこちら

 紫陽花を撮ってると、この神社には石灯籠がいくつかあることに気づいたぃね。石仏巡りの習性(笑)で、どんな銘が彫られてるんか、ついつい見ちまうんだぃなぁ。


 拝殿向かって左の石灯籠は「参宮記念」の銘。向かって右の石灯籠は・・・よく見てみっと・・・!! 「大演習記念」の銘が彫ってあるで!

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「大演習記念」


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側面には「昭和九年十一月吉日 籾山邦衛」の銘
 籾山氏は桐生愛国飛行場開設に尽力した当時の笠懸村長

 昭和9年の大演習って・・・これはあの桐生愛国飛行場跡の記事でも触れた昭和9年秋の陸軍特別大演習を記念・献上された石灯籠なんきゃ!笠懸図書館で発見した『鹿の川村伝記』(阿部悦男 1985)に陸軍特別大演習の記載があったんで、がんばってその箇所を打ち込んで引用すっと、
 その五十六章 愛国飛行場にて大閲兵式挙行される

 昭和九年秋、第十四師団を中心に二ケ師団の兵士五万有余の動員兵士が参加して大演習があり、笠懸村を最後の戦場としての決戦地点とし、演習終了の後、大閲兵式場となったのである。長野県、栃木県、茨城県、埼玉県と群馬県と広大な地域を戦場に想定し、秋季大演習がくりひろげたれた。東西両軍共次第次第に進攻し、戦場もせばまり、そのころになると兵士もかなりつかれ、行軍中にも居眠りをして土手下に転落する兵も出るという長期の演習であった。
 日を追って群馬県内に入り、笠懸近くまでくるといよいよ決戦の期も熟して来た。ついに、西の方から進攻してきた部隊は鹿田の大田んぼが決戦集結地となり、東は鹿の川から阿左美の間が決戦場となり、大演習も集結をみた。最後の仕上げの閲兵式が愛国飛行場、現在の四十三、四組及び就農部落である処で行われたが、さしも広い飛行場もせまく、入場する部隊、出場する部隊と鹿の川、久宮、前鹿田、各部落地帯は、兵士や戦車、大砲、軍馬、装甲車等で見物人は右往左往する一方で、うかうかしていられない状態であった。この為朝から夕方近くまでかかるという有様で、遠い部隊等は前夜鹿の川及び隣接部落に集結して露営する状況で混雑を極めた。閲兵式も終わったが当日また翌日と宿泊して帰隊する部隊もあって、数日間鹿の川附近は兵士でうまる程であった。兵士のはばのきいた時代で、また軍国主義時代の未曾有の一大祭典であった。 (以下略)

 当時は、この辺りは見渡すかぎりの野っ原で、演習にも好都合だったんべなぁ。今のみどり市の人口に匹敵する5万人の兵士が来ちゃったら、村も大騒ぎだったんべなぁ。その1年後の昭和10年(1935)には、この地は大旋風で甚大な被害に見舞われ、田舎の笠懸村は本当に毎年大変な騒ぎだったんじゃねぇかと。

 当時を伝える貴重なもんだんべから、大切に保存してってもらいてぇもんだぃね。

 鹿の川・赤城神社 (Yahoo!ロコ) 

【参考文献】
『笠懸村誌・下巻』 p272-275 笠懸村誌編集室 1988
『久宮村・桃頭村の歴史』 六区公民館落成記念誌 p57-58 1990
『鹿の川村伝記』 p116-117 阿部悦男 1985 (自費出版・みどり市立笠懸図書館献本)
『戦後70年戦時下の記憶とくらし』 展示図録 岩宿博物館第59回企画展 2015
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by dr_suzuki | 2015-07-08 17:30 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(4)
2014年 08月 24日
中島知久平邸 (太田市押切町)
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中島知久平邸の重厚な車寄せ・彫刻がお見事

 平成21年に太田市の重要文化財として指定され、今年から地域交流センターとしての利用が開始、おおたんの史跡探検スタンプラリーの新たなポイントに加えられた中島知久平邸に行ってみたで。

 中島飛行機の創設者・中島知久平が両親のために昭和5年に故郷に築いたとゆう近代和風の大規模邸宅。敷地面積は約3000坪、宅地面積は約300坪・・・いやぁすげぇの一言。現在は広間と応接間っきゃ公開されてねぇけんど、戦前なんにすでに「オール電化」だったつーんだから贅沢の度合いがハイレベルすぎだんべ。

 西向きの玄関とゆう群馬らしからぬ造りだけんど、南はすぐ利根川の堤防。ここいらに戦前は尾島飛行場があって、中島飛行機製作の飛行機が飛んでて、訪れた客人に南に開けた応接室や客間からそれを見せてたっつー話だ。庭もサッカーができるんじゃねぇかと思うぐれぇ広ぇし。立派であったであろう中庭、贅沢な調度品、絨毯、すんげぇ高ぇ天井。まさに宮殿建築さね。ぜひ一度行ってみて見てみてくんなぃ。入館無料。国指定史跡への準備を進めてるってことだぃね。


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絢爛な彫刻/この時代にヒーターの暖炉!/この時代にシャンデリア
贅沢な調度品・ステンドグラス
いたるところに中島家の家紋があるで

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「ロの字」形の大邸宅
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2階が「知久平屋敷」
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大きなヒマラヤ杉
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中庭・当時はすごかったんだんべなぁ
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南に開けた応接室

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客間への廊下
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客間・襖の波状模様は昭和22年9月カスリン台風による床上浸水の跡なんだと
(当時はGHQが将校倶楽部として接収してた)

 この夏のおおたんの史跡探検スタンプラリーも中島知久平邸で記念品権利の20個になったんで、ここでラリー帳を提出。帰ぇりに中島知久平翁の墓所がある押切の徳性寺にも行ってみたんだけんど、道がおーか狭くて難儀したぃ。車で行ってみんべっつー人は注意してくんない。

中島知久平邸 (Yahoo!ロコ:地図で見てもハンパねぇ大邸宅だっつーのがわかるで) 旧尾島町の設置した史跡めぐり看板では「中島新邸」の掲示が出てらぃね。

※中島知久平翁は中島飛行機の創業者ってことで、「東毛の戦争遺跡」タグにも分類しとくね。
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by dr_suzuki | 2014-08-24 17:36 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(8)
2011年 06月 11日
未成線・東武鉄道熊谷線橋脚 (邑楽郡大泉町丘山)
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ただ一脚のみ残る未成線・東武鉄道熊谷線橋脚 (邑楽郡大泉町丘山)


未成線の東武鉄道熊谷線ってしってるかい?

・・・Wikipediaによると
 もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期(1943年(昭和18年)12月5日)に、群馬県太田市の中島飛行機(現・富士重工業)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅- 東武小泉線の西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。なお、免許は東小泉駅(起点) -熊谷駅間となっている。
(中略)
しかし、第二期工事区間である新小泉駅 -妻沼駅間開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合から工事の中断は直にはできず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了した。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになった。その南側が熊谷線である。なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたが、堤外の1脚のみが群馬県側に残っている。
 利根川には大泉から埼玉・妻沼まで橋脚は全部で29脚あったそうだぃね。(南の熊谷駅-妻沼駅間は1983年5月31日に廃止されてらぃね。) その「堤外の1脚」を見物に大泉にいってみたで。

 東武小泉線西小泉駅から南に「いずみ緑道」があるんさ。これは群馬県側の営業線として作られていた貨物線の東武鉄道仙石河岸線(西小泉駅-新小泉駅-仙石河岸駅;1976年(昭和51年)10月1日廃止)の跡に整備された緑道さね。地図で見っと三洋電機の所で緑道はカーブを描いて西に曲がってらぃね。

 いずみ緑道を追って南下してぐ。そのカーブを描くあたりで道に迷っちまって、利根川堤防近くに着いたはいいんだけんど、完全に目標をロスト・・・蒸し暑ちぃ中堤防付近を探して歩ってると、農作業中のおじいさんを発見!これ幸いにと橋脚のありかを尋ねてみっと・・・「キョウキャク?あぁ、ピアのことかね。ピアならあの野球場のところにひとつ残ってたな。利根川の中のはもうなかったんじゃねぇかな」とご親切に教えていただく。この地元じゃ「ピア」って呼んでるんかぃ?

b0004675_12351713.jpg 町民野球場(いずみ総合公園)を目指す。公園脇の駐車場に車を停める。こりゃ立派なスタジアムじゃねーきゃ。北隣のサッカー場は、関東リーグ時代にザスパも試合をやったっつー所さね。このあたりが仙石河岸駅だったみてぇだけんど・・・すっかり整備されてて往時の面影のもんは残ってねぇみてぇだ。



 野球場のレフト側脇を堤防の方に行ぐと・・・
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目の前に「ぬりかべ」のようなコンクリートの物体がめぇてきたで。
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橋脚を北側から

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堤防から橋脚を眺める

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橋脚南の堤防から妻沼方面
かつてここに29脚の橋脚が林立し、妻沼を目指してたとゆう


 20世紀の遺物として、堤外にひっそりと屹立する橋脚。もし熊谷線が完成し、熊谷と太田が鉄路で結ばれていたら・・・太田や大泉はどうなってただんべか?

 ぜひ大泉町にはこの橋脚を近代化遺産として永く保存してほしいやぃね。

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未成線・東武鉄道熊谷線橋脚 (このあたり;Yahoo!ロコ;地図を広域にしてぐと仙石河岸線の路線がなんとなくわかるで)

国土交通省国土計画局・航空写真画像情報所在検索・案内システム
 ;ここで大泉界隈の1974年の航空写真をみっと、仙石河岸駅、そして利根川の中に橋脚がいっぺぇみえるで。

【参考文献】
 川島令三 『全国鉄道事情大研究 群馬・栃木編』 p167-179 草思社 2004


 ※厳密には戦争遺跡じゃねぇかもしんねぇが、もともとは熊谷線は軍需物資輸送目的の鉄路で、戦争終結の結果未成線となり、その橋梁も「遺跡化」したわけだし、広義の戦争遺跡として「東毛の戦争遺跡」タグにも加えとくとすっかね。
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by dr_suzuki | 2011-06-11 12:53 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(6)
2011年 05月 28日
B29爆撃機墜落地点 (邑楽郡邑楽町秋妻)
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B29爆撃機墜落地点 (邑楽郡邑楽町秋妻);赤目印が墜落地点

 久々の「東毛の戦争遺跡」を訪ねて。

 しばらく前、上毛新聞に地元の人たちが邑楽町・秋妻地区に「B29爆撃機墜落地点」の看板を建立したっつー記事が載ってたぃね。浅学ながら、邑楽にB29が墜落してたなんて知らなかったんさ。で、館林の帰りにちっと寄ってみたで。

b0004675_13323626.jpg 122号の「大根村」の信号を足利方面へ。(この大根村交差点を拡幅してぜひ右折車線を作ってほしいと122号を通るたんびに思う)県道152号足利赤岩線を足利方面に北上してぐと、右手に右のような案内看板が立ってるで。(ナビでは秋妻公民館に行き先を設定して最後の交差点を左(西)に曲がればいーんさね:このあたり(Yahoo!ロコ))


 詳しくは説明看板を見てもらうとすっか。
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現地説明板

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概念図拡大

 時は1945(昭和20)年2月10日のこと。中島飛行機太田工場を狙って飛んできたB29の2機体が墜落。イオンモール太田でその基台の跡が展示されてる高射砲じゃB29まで届かねんべ?と思ったら、空中接触での墜落なんだね。いきなしB29が落ちてきたんで、ここいらの人はまぁずびっくらこいたんべなぁ。説明板の画像からは墜落したB29の機体には女性の絵も描かれてたんもわからぃね。その後足利の集落に爆撃があって多くの無辜の民間人が犠牲なったんは痛ましい限りだぃね。

 今はそんなことがあったなんて全くわかんねぇ、あたり一面の麦秋の風景。東毛に残る貴重な戦争遺跡として長く後世にまで伝えてほしいもんだぃね。
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by dr_suzuki | 2011-05-28 13:36 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(6)
2010年 09月 08日
桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)
 以前、新田・市野倉の旧陸軍飛行場跡の記事を書いた時に、最後に「桐生愛国飛行場」とゆうのがあったと書いたら、quinoaさんからいろいろ教えてもらったぃね。

 「愛国飛行場」とは、1930年代以降の大日本帝国で献納された飛行場につけられた名称で、この辺りでは笠懸の久宮(くぐう)と鹿ノ川(かのがわ)にまたがる地区にあったんだけんど、戦争末期米軍の空襲で壊滅したんだそうだぃね。

 みどり市笠懸図書館でこの「桐生愛国飛行場」について調べてみたで。『笠懸村誌・下巻』(1988)に桐生愛国飛行場は約4ページにわたって記載されてらぃね。quinoaさんからご提供いただいた六区公民館落成記念誌『久宮村・桃頭村の歴史』(1990)には、その村誌を簡潔に要約した適度な長さの記事と字図の画像が載ってたんで、がんばって全文を打ち込んでみんべぇ。(数字と単位は半角に変換)下に図も引用。

桐生愛国飛行場
 久宮地区と鹿の川地区にまたがって広さ約50156坪(約165514㎡)の地に桐生愛国飛行場があった。これは昭和九年に造成に着手し、翌十年三月に国から非公式飛行場として許可され、使用が認められたものであった。この飛行場建設は桐生の森宗作(森喜作椎茸種駒開発者の父)が航空機の将来性に着眼し民間有志と共に航空事業に寄与したいとの念願から始められたものであった。ここに敷地が決まったのは森宗作氏の所有地がここの一部にあったことと、この事業に共鳴した当時の村長籾山邦衛氏(大字鹿の川)が、ここの用地の大半を所有していた等の事情から用地の取得が容易であり、付近には人家もなく特別な障害物もないなどの好条件からここに決定したといわれている。桐生には帝国飛行協会桐生支部があり、また市内にはグライダーの制作をしていた人もあり航空関係に関心を持つ人が多かったのであろう。
 この飛行場ではグライダーの滑空訓練から始まっていたようであるが段々軍事色が濃くなるに従って飛行学校生徒がフランス製アポロ式複葉機を使用して落下傘の投下試験やパイロット養成のための試験コースとして羽田、愛国飛行場間を飛んだりしたと言う。民間人の純粋な航空機に対する考えで発した飛行場であったが銃後に備える青少年の士気の高揚にと青少年学徒の連合演習場ともなった。
 終戦間際にこの飛行場が米軍機に空襲され格納庫が爆破され、隠してあった飛行機の一機が機銃掃射で完全に破壊され、飛行場とその付近は機銃弾の薬莢が散乱していた。先の大東亜戦争で空襲を受けたのは笠懸地内ではここ一ケ所であった。これによって飛行場の機能は完全に失われたのであった。その後この広大な跡地はしばらくの間放置され荒れるにまかせてあったが、やがて農地解放の結果11戸の農家が入植し、立派な農地に生まれ変わり、戦後の食糧不足を補うのに役立ったのである。この部落を人々は「就農」と今でも呼んでいる。

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 『鹿の川村伝記』(阿部悦男 1985)によれば、昭和9年秋に5万人を動員した陸軍の大演習があり、ここで最後の閲兵式が執り行われたとのことだぃね。

b0004675_17411148.jpg 掲載されてる字図の画像をみっと飛行場から東に行ったところの丁字路が現在のセブンイレブン久宮店の交差点にあたらぃね。右の画像は現在のセブンイレブン側からの道。この道の先にその昔愛国飛行場があったんだねぇ。
 
 今では、市野倉の飛行場と同じく戦後の開拓により、現地に桐生愛国飛行場の跡は見る影もなくなっちゃって、フツーの田舎の街並みになってて、画像に撮れるような戦争遺跡の画像もなく、ブログ的にもなんだかなぁと思って、すっかり「お蔵入り」記事になってたんだけんど・・・


 こないだネットをサーフしてて、とりさんのブログ「空港探索」の「群馬県・桐生愛国飛行場跡地」とゆう記事を偶然にも発見。そこに笠懸町鹿の「かどや公園」(旧・火鉢博物館)に「帝國飛行協會桐生支部」の石柱が保存されてるとゆうんには、まぁずびっくらこいたぃね。何度もそこの前を通ってるんに、全然知らなかったで!!

 そんなわけで早速、「かどや公園」に行ってみたで。あったで!石柱!

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「帝國飛行協會桐生支部」の石柱


 こんなもんが、ここにひっそりと保存されてたとは・・・きっとこの門柱は桐生愛国飛行場の中にあったもんなんだんべなぁ。笠懸の数少ねぇ戦争関連モノとしてしっかりと保存してってもらいてぇやぃね。

かどや公園 (Yahoo!ロコ)

※2012年7月追記
「かどや公園」は大きく整備されて、この石柱は公園東側の県道69号線沿い敷地内に移設されてるで。

【参考文献】
『笠懸村誌・下巻』 p272-275 笠懸村誌編集室 1988
『久宮村・桃頭村の歴史』 六区公民館落成記念誌 p57-58 1990
『鹿の川村伝記』 p116-117 阿部悦男 1985 (自費出版・みどり市立笠懸図書館献本)
『フィールドワーク 群馬の戦争遺跡』 p48 第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム 群馬県実行委員会 2007
とりさんのブログ「空港探索」の「群馬県・桐生愛国飛行場跡地

【2015年追記】
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 みどり市岩宿博物館で、平成27(2015)年1月31日(土)~3月15日(日)まで、第59回企画展 『戦後70年 戦時下の記憶とくらし』 が開催され、桐生愛国飛行場の展示も行われてたんで、最終日の3月15日に行って見学してきたで。桐生愛国飛行場にあった飛行機の木製のプロペラが展示されてたぃね。(撮影禁止だったぃ)
 ついでに資料集を買ってきたんさ。東村防空監視哨跡 (みどり市東町花輪)の記事もあるほか、巻末に当時の桐生愛国飛行場の上毛新聞なんかの記事が載っていて興味深ぇやぃね。それにしても岩澤正作先生は、戦時供出される鐘の拓本を取ってたとゆうのは恐れいったぃなぁ。

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【参考文献】
 『戦後70年 戦時下の記憶とくらし』  p4-5 みどり市岩宿博物館 2015
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by dr_suzuki | 2010-09-08 17:48 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(8)
2010年 08月 25日
旧陸軍新田飛行場 着陸訓練施設鎮碇? (太田市新田市野倉町)
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謎のコンクリートの物体が畑の脇に・旧陸軍新田飛行場の格納庫跡?


 理解を深めるために、まず拙ブログ記事「旧陸軍新田飛行場跡」を見てくんなぃ!

 ブログを見てくれてるcoasisciderさんから、新田市野倉の畑の中に、地元で唯一残ってる戦争遺構とゆわれてるとゆうコンクリートの物体があると教えてもらったんで、通勤途中に寄り道して取材してみたで。

 市野倉の北の外れにある(Yahoo!ロコ) んさね。畑の中にポツンとあるのですぐわかるで。旧飛行場の北端付近にあったんじゃねーかと推定。

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幅3m・高さ2mぐれぇ
大きさから、飛行機を隠す格納庫・掩体壕(えんたいごう)じゃなさそうだぃな。
鉄筋の基礎もめぇる

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真横・左から:コンクリートの奥行きも2.5mぐれぇか?

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左斜め前から


 形から推定すると格納庫か何かの基礎じゃねんかなぁ。後ろには幌みてぇな囲いがついてたんかなぁ?・・・詳しい人、コメント求む!

 coasisciderさんが近くで畑仕事しているおじーさんに聞いたら、戦前からあるもんらしいとのことだぃね。

 もし戦争遺構だとしたら、戦後ここいらに就農した人がぼっこわさなくてよかったぃねぇ。戦争遺構は貴重なんで、ぜひ太田市は早急に調査して、遺構なら文化財として保存すべきじゃねぇかと思うんだけんど・・・

 coasisciderさん、貴重な情報ありがとうございました。

◆2016年1月追記
 kanさんより、貴重なご意見を頂戴しました。
 「着陸訓練施設鎮碇」(ちゃくりくくんれんしせつちんじょう)ではないかと。
 三点着陸の訓練にロープを固定したRC造の鎮碇で、鹿児島の知覧にも同型のものが残っていると。

 この記事のタイトルも 旧陸軍新田飛行場格納庫跡から 着陸訓練施設鎮碇 に変更致しました。

 kanさん、ありがとうございました。
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by dr_suzuki | 2010-08-25 17:53 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(23)
2009年 01月 21日
旧中島飛行機地下工場跡 (太田市西長岡町)
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旧中島飛行機地下工場への坑道跡 (太田市西長岡町)


b0004675_1855315.jpg 太田の八王子丘陵には広大な八王子山公園墓地が整備されてるんさね。その中の一番奥の愛宕山の東側最深の丘陵部にひっそりと旧中島飛行機地下工場跡の坑道があることは、あんまり知られてねぇやぃね。

 太平洋戦争末期、戦局が著しく悪化した1944年末に、旧日本軍はここ愛宕山に地下軍需工場(薮塚工場)の建設を始めたんだと。(中島飛行機太田製作所は1945年2月に米軍機の空襲を受けて、多くは灰燼に帰しちまった)ここに多くのトンネルを掘って地下工場で本土決戦に備えて地下で特攻機の製作をしたり、こっから特攻機の発射も目論んでたらしい。1945年10月の完成を目指してたらしいけんど、建設途中に終戦となって、半分よりちっとできたぐれぇで地下工場の機能はなかったんだと。案内板に描かれた計画図をみっと地下に広大に縦横無尽に通路を掘ってぐ、おーかすげぇ計画だったことがわからぃね。ここでは1500人が10時間交代で突貫工事、日本人はもちろんお気の毒にも中国人捕虜や朝鮮の方々が強制労働をさせられ、多くの人が非業の死を遂げられたって話だ。(以前その在り処を探した西長岡鉱泉長生館も工事関係者の施設として接収されてたみて)終戦後間もなくの11月に米国戦略爆撃調査団がここに来たときには、既に多くの入り口で崩落が始まったってたんだそうだぃね。戦後60年余りが過ぎ、危険なためか内部の調査もされてねぇし、地下工場の真相は、まさに「闇の中」だぃね。

 現在は愛宕山の丘陵部に金属円筒で補強された坑道がひとつだけ開口してるけんど、入り口は金属の柵、その手前数メートルに立入禁止の看板と柵が設置され中を窺い知ることはでぎねぇやぃね。坑道からはこんこんと清水が湧き出し、その中にはこの寒中にもかかわらずクレソンと思われる草が青々と生えてらぃね。かつて軍需都市として発展した太田。戦争という異常なエネルギーが生み出した、悲しい歴史を持つこの愛宕山の遺構。オレたちが平和の大切さを考えてぐ遺構として、後世まで大事にしなくっちゃなんねぇよね。

 坑道に向け合掌。愛宕山を後にしたで。 

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ハチ・マムシ注意/説明板の地下工場計画図拡大/坑道入口をズームで

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現地案内板

b0004675_18525089.gif【右図は、カシミール3Dで国土地理院「ウオッちず」公開データに、今回のGPSのデータを読み込んだものを引用。フラッグは旧中島飛行機地下工場跡の立入禁止柵前。(北緯36度21分13秒32,東経139度20分03秒38) 見学してぇ人は公園の奥の高台まで歩って来てくんな。警告看板が立ってるように夏場にはハチやマムシ、墓地のお供えもんを狙って来るイノシシにも注意してくんなぃね。】


【参考文献】
現地説明板, 太田市教育委員会, 1996
『フィールドワーク 群馬の戦争遺跡』,p44-46, 第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム 群馬県実行委員会, 2007
『日本の戦争遺跡』, 平凡社, 2004
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by dr_suzuki | 2009-01-21 19:13 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2007年 10月 09日
東村防空監視哨跡 (みどり市東町花輪)
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東村防空監視哨跡 (みどり市東町花輪;みどり市指定史跡)

 小中大滝を後にし、花輪地区へ向かう。東毛の戦争遺跡、「東村防空監視哨跡」に行ってみることにしたぃね。

 1941年にB25による本土爆撃が始まっと、群馬県は防空計画を策定して、防空監視総本部を県庁におき、県内40カ所に防空監視哨を置いたんだそうだぃね。この東村花輪防空監視哨は1942年に完成。構造は下部はコンクリート製のラッパ状に開く円筒形の聴音壕、上部は失われてるけんど、聴音しやすいように円錐形の萱葺きの屋根がかかっていたんだと。この中で24時間体制で、敵機の機数や侵入経路・時間などを音響の聴音と目視で確認してたんだと。(経験を積むと機種の判別も100%聴き分けられたんだそうだけんど・・・) 

1995年旧東村に残る戦争遺跡として、村指定遺跡に指定。(→合併に伴いみどり市に継承) 場所はちっとわかりづらくって、右往左往しちまって、地元の方に尋ねて、やっとこさ場所がわかったんだぃね。みどり市東庁舎の東側ののどかな田園風景の中の丘の上にひっそりとあるんさ。今はコンクリートの枠しかなくって、一見すっと「古井戸」のようにしかみえねぇんだけんどね。中も雑草が茫々さね・・・・でも今を去ること60年前、ここで米軍の電子の目と耳に対抗して、人間の目と耳を極限まで研ぎ澄ませた兵士達が戦っていたんだねぇ。

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 防空監視哨跡 (みどり市ホームページ)

 ※群馬県内には防空監視哨跡は、ここと、長野原町大津交差点近くに残ってる(長野原町指定史跡)んだそうだぃね。

(つづく)

【参考文献】
『フィールドワーク 群馬の戦争遺跡』,p49-50, 第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム 群馬県実行委員会, 2007
『日本の戦争遺跡』, 平凡社, 2004
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by dr_suzuki | 2007-10-09 17:58 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2007年 09月 28日
旧陸軍新田飛行場跡 (太田市・旧新田町北部)
 東毛の旧新田町北部(現太田市)あたりの地図、見たことあっかぃ?(下の画像は2万5千分の1の地図をカシミール3Dで読み込んで、キャプチャしたもんだぃね。)
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 この辺り(新田市野倉:にったいちのくら)、周りの道の走行と明らかに違がう四角形の地形があるんがわかるんべ?ここが今を去ること60数年前、旧陸軍の飛行場だったって知ってるかぃ?

 1938年、平地松林を切り開いて、この地に熊谷陸軍飛行学校新田分教場が開校。この飛行場は一辺1600mの方形、群馬の空っ風の中でも発着陸がでぎるように、北西~南東に向けて作られていたんだと。1944年12月には中島飛行機太田工場の疎開工場も作られて、終戦直前の7月に米軍機の空爆で壊滅しちまったんだそうだぃね。戦後、開墾による入植や多くの工場が誘致されて、飛行場の形跡は徐々に姿を消して、今では周囲を取り巻くわずかな松林の他は、当時の面影はほとんどねぇやぃね。ここ市野倉のあたりは地元では「カイタク(開拓)」って呼ばれてて、オレが子供の頃(昭和50年ごろ)は、まだまだ工場があんまり誘致されてなくって、所々に飛行場の滑走路になってた(だろう)コンクリート面の広大な空き地が結構残ってたんさね。隣村のオレたちはよくカイタクまで自転車(じでんしゃ)ふんごくって遠征して、その空き地で草野球やったもんだけんど、転んだりすっと「血だら真っ赤」だったぃなぁ。

 県道332号桐生新田線の道路っぱたに終戦50周年を記念して「陸鷲修練之地」の石碑がたってるって、とある本で知ったんで、仕事帰ぇりに寄ってみたで。草ボーボーの中、ひっそりと立つ碑だったぃね。裏を見てみたけど特に何も刻まれてねぇやぃね。貴重な戦争遺跡として、まっときちんと説明板とか作って後世に伝えたほうがいんじゃねんかねぇ。それが軍需産業都市だった新田・太田の責任でもあるような気がするんだけんどね。
 でも戦後、そのまんま飛行場が残ってたら・・・・・群馬の交通、観光、経済や政治に与えた影響はまっさかでっかかったんべねぇ。

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「陸鷲修練之地」の碑
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画像は2009年7月に再撮・・・下草も刈られてた

「陸鷲修練之地」の碑 (このあたり:Yahoo!ロコ←市野倉の地形にも注目)

 笠懸にも戦時中、「桐生愛国飛行場」ってゆー飛行場があったんだそうだぃね。やっぱ終戦近くに空爆され壊滅しちまったそうなんだけんど。いったいどの辺にあったんかねぇ?

【参考文献】
『フィールドワーク 群馬の戦争遺跡』, p48, 第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム 群馬県実行委員会, 2007

(追記:いずれもオレのブログの記事)
 桐生愛国飛行場跡 (みどり市笠懸町)  
 67年目の夏の日に ~ 旧陸軍新田飛行場で訓練を受けた少年飛行兵のドキュメンタリー作成に協力したで。
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by dr_suzuki | 2007-09-28 22:29 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(19)
2007年 02月 04日
高射砲陣地跡(イオンモール太田)
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高射砲陣地跡
説明図/イオンモール太田SCの一角にある/見つかった場所の説明図
砲台断面図説明図/賑わうイオンモール太田SC/砂塵に霞む金山

 今日は、3月の末みてぇにからっ風が荒れ狂ってたぃねぇ。なんで、どっか室内ぶらつくかってことで、イオンモール太田(太田市下小林)に行ってきたで。金山も砂塵に霞んでたぃねぇ。

 イオンは、ショッピングする人たちで大賑わい。今日のイオンのアナウンスのおねぇちゃんは、「おーた」をきちんと地元発音していたな。オレは、子供達がゲーセンで遊んでる間、先日八王子丘陵のことを調べてて、たまたま太田市ホームページで目にした、イオンモール太田の中にあるっつー「高射砲陣地跡」に行ってみることにしたで。この遺構は、建物の南の芝生の一角にひっそりとあるんさね。

 設置されている説明板を参考にすっと、この高射砲は、太平洋戦争時、旧陸軍によって配備された航空機(おそらくB29)を撃墜するための大砲だそうだぃね。当時の太田町は軍需産業都市だったんで、戦争末期に何度もB29による空襲を受けてたんさね。高射砲は、ここ下小林や由良、古戸にも設置されてたらしいで。イオンを作る時に、6基の砲台跡がめっかって、約24m間隔の扇形に配置されていたとのことだぃね。そのうちの1基(直径4.5mの円柱形のコンクリート)をイオンの建物の南に歴史教育、平和教育のために移設して残してくれたらしいんさ。戦争遺構は破壊されちまうことが多いんで、立派だぃね。>イオン

 今、6基の扇陣形の高射砲のあった上には、たくさんの人が平和にショッピングを楽しんでらぃね。おそらく、高射砲6基じゃ、B29の雨アラレの爆撃に一矢を報いることも難しかったんべな。ここを守って命を落とした兵士も多かったんじゃねぇか。オレたちは、この平和が、日本や郷土のために戦ってくれた人達の尊い犠牲の上に成り立ったんだと、まっと感謝しねぇといけねぇよね。この60年余後の、豊かだが頼りねぇ日本の姿を、泉下の国で彼らはどう思ってるだんべね。

 高射砲陣地跡 (太田市ホームページ)
 高射砲陣地跡 (このあたりの芝生の一角に;Yahoo!ロコ)

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by dr_suzuki | 2007-02-04 20:29 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(4)