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2010年 08月 30日
須永地蔵尊 (太田市新田市野倉町)
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須永地蔵尊堂と石碑 (太田市新田市野倉町)

 話はまたちょっと戻らぃね。

 教えてもらった旧陸軍飛行場跡の戦争遺跡と思われる物体のありかを、ネットの地図で確認してると、そこの近くに「須永地蔵尊」とゆうのがあるんに気づいたんさね。その辺、須永って地名じゃねぇだんべし、何か気になるなぁと思い「須永地蔵尊」でネットで検索してみた。唯一の情報がYahoo!百科事典。引用すっと

須永好(すながこう)(1894―1946)
農民運動家。明治27年6月13日群馬県に生まれる。二町歩経営の自作農の次男。中学中退。日本農民組合の創立以来の指導者。労働農民党、日本労農党、社会大衆党の指導者でもあった。居村新田(にった)郡強戸(ごうど)村では、1926年(昭和1)以降8年間「無産村」とよばれる農民組合主導の村政を築き上げた。37年衆議院当選。42年翼賛選挙で非推薦、落選。戦後、日本社会党中央執行委員。46年(昭和21)には、再建された日本農民組合の初代会長となった。同年衆議院に当選したが、9月11日に急死した。須永地蔵尊が地元に建立されている。

 須永好氏は太田市が、その昔発行した子供向けの歴史漫画『まんが太田の歴史』(p187;1993)にも取り上げられてらぃね。

 太田市|農民運動家 須永 好 (太田市ホームページ)

 戦前とゆう時代、「無産村」は全国的にも相当有名だったらしく「太田市史」や「群馬県史」にも一連の経緯が取り上げられてるぐれぇだぃね。オレはその強戸の出身なんで、子供の頃、祖父をはじめ、年配の人から須永好氏の話とかよく聞かされたぃね。なんでも衆議院議会での質問後に、突然倒れ急逝されたんだと聞かぃね。強戸およびその周辺の人々に強烈なインパクトを残した政治家だったんだんべ。・・・でも強戸に地蔵尊なんてなかったような気がすんだけんどな。

 おまけに市野倉の辺りは強戸じゃなくって隣村の生品村領分なんだけんど?どーしてそこに地蔵尊が祀られてるんだんべか?ならばそこへ行って確認してみっきゃねぇやぃな。

b0004675_1832877.jpg 戦争遺跡と思われる物体を見物してから、須永地蔵尊へと車を走らせる。

 そこには地蔵尊堂と石碑が2基、そのうちの1基は幾星霜を経て彫られた文字が読みづらくなってて、その横に新しいもんを近年建てたらしいやぃね。


 そばの新しい石碑にはこうあるで。がんばって打ち込んでみんべぇか。
須永地蔵尊堂建立由来記
 須永好先生は明治二十七年六月十三日強戸村に生る 天資篤厚 早くより三宝に帰依し救世済民の志あり 昭和二十年八月我国は第二次世界大戦の敗戦に伴い 職に離れ 業を失う者途溢れ食料の欠乏 道義の頽廃その極に達し 正に堯季末法の世相を呈せり
 先生夙に慮る所あり 離職者をこの地に入植開拓せしめ 食糧を増産し祖国再建の礎をここに求めんとす 当時新田開拓地に陸軍飛行場として軍の挟掌する所たり 先生は蹶然として起ち あらゆる障害を排し 働く農民みずからの理想郷を建設せんとす 先生の至誠ついに凝り 昭和二十一年一月十日 百九十戸の入植を見るに至る 然るに惜むべし昭和二十一年九月十一日溘焉急逝せらる 訃音 一度伝わるや入植者の斉しく哀号 痛哭すること父を失いたるが如し 先生の徳沢を永遠に讃仰せんとする者諮り覚霊を招徠して須永地蔵尊と奉祀す
 然るに露○の尊像は風雨に破れ 霜雪に朽ちんとす 真に見るに忍びざるものあり ここに於いて新たに堂宇を建立するの義 翕然として起こる この挙に随喜協讃するの士 或いは懇資を運び 或いは力を致してこの美挙を助く 昭和三十四年九月十一日ついに成る
 (以後、中略)

 平成六年十月吉日
 ※(注)デジカメで撮って文章に興したんだけんど「○」はオレに学がねんで読めねぇやぃ。ちょっと上の世代は、難しい日本語をいっぺぇ知ってたんだねぇ。

 須永氏は広大な飛行場跡地を農地にしようと奔走したんだねー。そして就農した方々が急逝した彼への恩義を感じ、ここ市野倉に地蔵尊が建てられったってことなんだんべねー。ここいら辺は水源に乏しいから農地にするんもまっさか苦労しただんべな。今、飛行場跡は広大な農地になり、たくさんの企業も進出して地元経済を支えてるで。立派な桜の名所もあるしね。

 それにしても国会での質問後に倒れ、不帰の人になるなんざぁ国会議員として「殉職」ともゆえらぃなぁ。彼の思想は別にしても、なっから気骨のある政治家だったんだんべな。戦後65年も過ぎて、今の国会議員の連中は国民の事はすっかり忘れて、議場外の権力闘争に明け暮れてる始末。須永氏もあの世でさぞかし忸怩たる思いで見てるだんべなぁ。

須永地蔵尊(ちず丸リンク)

【参考文献】
『まんが太田の歴史』 p187 太田市 1993

【追記】
強戸(成塚町)・永昌寺の「須永好之碑」
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【2013年2月追記】

b0004675_18213449.jpg【の】 農民の父と言われた須永好


『強戸かるた』 強戸地区青少年健全育成推進会議編 (1987)



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by dr_suzuki | 2010-08-30 18:13 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(4)
2010年 08月 29日
2010 J2: 第24節 vs 徳島ヴォルティス
b0004675_22585955.gifザスパ草津 1-4 徳島ヴォルティス

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b0004675_2325118.jpgb0004675_23251956.jpgb0004675_23215125.jpg
b0004675_232278.jpgb0004675_23221734.jpgb0004675_23222771.jpg
惨敗・・・また春頃の調子に戻っちゃったみてぇな感じ
今日はユーリンチー食った(うんまぃ!)/愛あるブーイングをかます/試合開始
クマのFKが決まり同点/沸き立つスタジアム/後半開始!シマみてろよ!・・のはずが・・・

b0004675_23422086.jpg クマのFKが決まり同点になったとき、今日も行げる!と思ったんだけんどねー。後半、クマを交代しちゃったら、全然攻撃でぎねえでやんの。交代した選手がまっと走んなきゃ勝てるわきゃねぇやぃな。なんか春頃のチームに逆戻りしちゃった感じで、おーか蒸し暑ちぃんもあいまって、まぁず徒労感べぇ残った試合だったぃね。限定赤黒ユニの時のほうがまっさか強かったぃねー。なんならハーフタイムの芝生整備のおじさん達(右)に頼んで、今日の後半、赤黒ユニ借りたらよかったんじゃねぇん?(笑)

 ・・・敵ながら、やっぱシマはうめぇなぁ。

 現在15位 (6勝5分12敗;勝点23、得失点差-14)

【J2:第24節 草津 vs 徳島】レポート:草津は自滅で痛恨の連敗。徳島は2戦連続4ゴールで快勝!(10.08.30) (J'sGOAL)

※9/1に雷雨で中止となった水戸-大分の再試合があって、水戸が勝ったため16位に転落。
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by dr_suzuki | 2010-08-29 23:45 | ザスパ | Trackback | Comments(0)
2010年 08月 28日
台源氏館跡 (太田市由良町)
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台源氏館跡 (太田市由良町)・義貞公誕生比定地

 尾島からの帰ぇり、前回の訪問の時に蚊の襲来でブレちまった国良親王陵の石碑を再撮しに、円福寺茶臼山古墳へ立ち寄ったで。画像を撮り終えて、せっかくなんでそっから東に500mほど行ったところにある義貞公誕生比定地「台源氏館跡」に寄ってぐことにしたで。

 ここは新田又太郎政義が由良郷台に館を構え、里人が台源氏と呼んだことがその名の由来だとゆわぃね。

b0004675_15473913.jpg 県道2号線に「新田遺跡入口」とゆう交差点があって、ここを南に行って、途中の酒屋さんの交差点を西に行くと円福寺、東に行ぐと細せぇ道になってって、この台源氏館跡があるんだけんど、曲る所の標識はわかりづれぇし・・・実はオレは長ぇ間、まっと南にある飯玉神社の杜がずっと台源氏館跡なんだと思ってたんだぃね。(県道交差点の名称もなんだかなぁと思わぃね。観光客にも優しくねぇんじゃねーきゃ。)


b0004675_1556361.jpg で、行ってみっと、ここは住宅街の一角で地元の方々の憩いの場所となってるらしく、立派な東屋もできてて、芝生も敷かれてらぃね。「新田義貞卿誕生地之碑」など大きな2つの石碑と松、説明板があるだけで、ここが「館跡」とゆわれても全くわかんねぇやぃね。まぁ忘れられちまうよりは、公園化されて地元の人々にずっと愛されてぐほうがいんじゃねんかとは思うんだけんど・・・


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「新田義貞卿誕生地之碑」

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現地案内板


 その後、義貞公は成人後、ここを離れ反町館に移ったとゆわれてらぃね。

b0004675_23314267.gif台源氏館跡 (ちず丸リンク)
 ※駐車場は全くねぇんで、円福寺から歩ってぐんがいーかと。
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by dr_suzuki | 2010-08-28 15:58 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2010年 08月 28日
高山彦九郎記念館 (太田市細谷町)
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高山彦九郎記念館 (太田市細谷町)


 林子平、蒲生君平と共に 寛政の三奇人と云われた高山彦九郎。(奇人といってもクレージーって意味じゃねぇよ。)全国を行脚し、多くの人と親交を深め、勤王思想を説き、後の幕末の志士たちに影響を与えた人物だぃね。戦前は太田の天神山に高山神社が造られたり、修身教育に取り上げられたりと、かなりの高評価だったんだけんど、戦後一気に評価が変わっちまった、ある意味不遇な人物さね。

 京都市の三条大橋東詰に皇居望拝姿(「土下座」とゆわれてるそうだけんど)の彦九郎の銅像があるそうなんで、京都にもし行ぐことがあったらぜひ見てみてぇやぃね。

b0004675_12415229.jpg その全国行脚の足跡もさることながら、詳細な旅行記も残してるんだぃね。遠方もさておき、近郊の桐生の「忍山温泉」に行った旅行記『忍山湯旅の記』なんかも残されてて、今の太田北部や桐生の当時の様子がよくわかる貴重な資料だぃね。もしあの時代に、デジカメとブログがあったら、すんげぇ人気のブロガーになってたんじゃねぇかな。館内は撮影禁止なんだけんど、入口の所は撮影OKだったんで彦九郎の立像を撮影させてもらったで。


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高山彦九郎宅跡
今は畑になってて、中央にある井戸跡だけが痕跡らしいで

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高山彦九郎遺髪塚
中央遠めの石塔が遺髪塚


高山彦九郎記念館 (公式)

高山彦九郎記念館(ちず丸リンク)

b0004675_2021581.gif ここでスタンプラリーの賞品獲得権利の17個目のスタンプをゲット!あえて太田の自慢の金山関係3つ・天神山古墳・縁切寺満徳寺の5つを残して、これにて終了(笑)として、その足で尾島の教育委員会・文化財課にスタンプラリー台帳を提出してきたで。記念品は後日郵送してくださるそうで、楽しみだぃね。

 オヤジの「夏休みの宿題」も、これにて無事完了(笑)。

 みどりや桐生もこんな企画してくんねぇかねぇ。観光に力入れてぐんなら、ヨソ様より地元民が郷土の偉人や名所旧跡をしらねんは、本末転倒だと思うんだけんど。太田の人、こどもたちはほんと幸せだぃね。
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by dr_suzuki | 2010-08-28 12:50 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2010年 08月 25日
旧陸軍新田飛行場 着陸訓練施設鎮碇? (太田市新田市野倉町)
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謎のコンクリートの物体が畑の脇に・旧陸軍新田飛行場の格納庫跡?


 理解を深めるために、まず拙ブログ記事「旧陸軍新田飛行場跡」を見てくんなぃ!

 ブログを見てくれてるcoasisciderさんから、新田市野倉の畑の中に、地元で唯一残ってる戦争遺構とゆわれてるとゆうコンクリートの物体があると教えてもらったんで、通勤途中に寄り道して取材してみたで。

 市野倉の北の外れにある(Yahoo!ロコ) んさね。畑の中にポツンとあるのですぐわかるで。旧飛行場の北端付近にあったんじゃねーかと推定。

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幅3m・高さ2mぐれぇ
大きさから、飛行機を隠す格納庫・掩体壕(えんたいごう)じゃなさそうだぃな。
鉄筋の基礎もめぇる

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真横・左から:コンクリートの奥行きも2.5mぐれぇか?

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左斜め前から


 形から推定すると格納庫か何かの基礎じゃねんかなぁ。後ろには幌みてぇな囲いがついてたんかなぁ?・・・詳しい人、コメント求む!

 coasisciderさんが近くで畑仕事しているおじーさんに聞いたら、戦前からあるもんらしいとのことだぃね。

 もし戦争遺構だとしたら、戦後ここいらに就農した人がぼっこわさなくてよかったぃねぇ。戦争遺構は貴重なんで、ぜひ太田市は早急に調査して、遺構なら文化財として保存すべきじゃねぇかと思うんだけんど・・・

 coasisciderさん、貴重な情報ありがとうございました。

◆2016年1月追記
 kanさんより、貴重なご意見を頂戴しました。
 「着陸訓練施設鎮碇」(ちゃくりくくんれんしせつちんじょう)ではないかと。
 三点着陸の訓練にロープを固定したRC造の鎮碇で、鹿児島の知覧にも同型のものが残っていると。

 この記事のタイトルも 旧陸軍新田飛行場格納庫跡から 着陸訓練施設鎮碇 に変更致しました。

 kanさん、ありがとうございました。
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by dr_suzuki | 2010-08-25 17:53 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(23)
2010年 08月 25日
円福寺茶臼山古墳 (太田市別所町)
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円福寺茶臼山古墳 (太田市別所町);西側の水田から

 太田市宝泉台地の西部にある県内第3の古墳。(太田市内では天神山古墳に次いで2位) 間近に見るとたしかにでっけぇ。東側には円福寺や伝新田氏累代の鞍部には十二所神社があるんだけんど、西側からみるとよく古墳の原型を留めてらぃね。これだけのでっけぇもんをよくぞ造ったもんだぃなぁ。由良の地に聳える、まさに「山」とゆえるレベルだぃねぇ。

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現地案内板


 その墳丘近くには

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国良親王御陵の碑


 国良親王???・・・実は浅学ゆえ全く知らなかったんで図書館等で調べてみたで。

 国良親王は新田義貞公と勾当内侍の子である山吹姫と、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の間に生まれた皇子で、国良親王が新田荘にいて、ここに葬られたといゆう伝説があるらしいんさね。

 宗良親王は正平一統の際に新田義興・義宗とともに鎌倉を一時奪還、征夷大将軍に任じられる。北朝方に敗れ鎌倉を再奪取された後は、義宗や南朝勢力と共に越後、上州や信濃で南朝の勢力挽回のための軍事行動をしたと伝えられている。国良親王は史実では皇子として認められてねぇ模様。国良親王は円福寺にいて、義宗は新田政義が築き新田累代の拠点となっていた東の台源氏館にいたとも伝えられてるとのことだぃね。

『新田郡宝泉村誌』(1976)には、以下のような伝説が記載されてる。
円福寺保存銅板印刷によると、
興国二年(後村上天皇今より約六二七年前)征東将軍一品中務卿宗良親王、信州伊那郡山中において、国良親王を生む、その後山吹女剃髪して覚心尼と云う。これより宗良親王上野着御の砌り、金山、艮の方畠中と云えるところに御所を構えしが後同由良郷宝泉野に御所を移させ給う。爾来金山城を実城と称し、新田貞氏公をもってその実城の第一世とす、貞氏は国良親王を守護し奉りもって新田宮内と云う処に花見塚をたて、更に御野所となす、親王は正平二十四年八月九日をもって薨去あらせられ、月の十五日をもって同荘由良別墅円福寺中の茶臼山に葬り奉る、御年三十一、以上の伝説がある。

 石碑の感じが矢止めの松の石碑とおんなじようだから、戦前に新田氏関連の史跡を一連で顕彰したもんなんだんべか?(→後に裏を見たら昭和34年建立だったぃね・・・)

 果たして伝説の真実や如何に?

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 それにしても墳丘近く、仄暗ぇは、蚊の大群がいるはで辟易したで。やっぱ古墳見学は冬に限るんねー。

 太田市|円福寺茶臼山古墳 (太田市ホームページ)

 b0004675_11311711.gif円福寺茶臼山古墳 (ちず丸リンク)


b0004675_23314267.gif「伝説地」なんだけど、一応「新田氏関連史跡めぐり」にも加えとくとすっか。


【参考文献】
『新田郡宝泉村誌』 p750-754 宝泉村誌編纂委員会 1976
『皇子たちの南北朝―後醍醐天皇の分身』 森 茂暁 中公文庫 中央公論新社 2007
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by dr_suzuki | 2010-08-25 12:03 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2010年 08月 22日
伝新田氏累代の墓 (太田市別所町)
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円福寺・伝新田氏累代の墓


 茶臼山古墳前方部東側にあり、五輪塔、石層塔など20基余り。岩質はいずれも凝灰岩でほぼ完存、笠懸西鹿田の天神山の産出だそうだぃね。そのうち南から2番目の五輪塔地輪部には彫の深い薬研彫で「沙弥道義七十二逝去元享四年(1324)甲子六月十一日巳時」の銘文があって「ア」の梵字が見られるんだと。(詳しくは案内板参照;沙弥道義は義貞の祖父基氏の法名。)ネット見っと以前は雨ざらしだったみてぇだけんど、最近屋根がかけられたみてぇだぃね。

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現地案内板


 残念ながら、ここでも蚊の猛攻にあい、拝んだ後、逃げるように退却(笑)この時期は虫除け必須なことを痛感。車に逃げ込んでたら、駐車場にスタンプ帳もった親子連れ到着。同志をめっけて(笑)なんかうれしかったぃなぁ。

b0004675_23314267.gif伝新田氏累代の墓 (ちず丸リンク)

(つづく;もう一遍、近日追加予定!)
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by dr_suzuki | 2010-08-22 18:55 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2010年 08月 22日
円福寺境内&十二所神社境内 (太田市別所町)
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御室山円福寺山門

b0004675_2084198.gif 8月某日夕方、仕事帰ぇりに「おおたんの史跡めぐりスタンプラリー」16ポイントめを目指し、新田荘遺跡・円福寺のある別所町へ。・・・実は最初は仕事が延びい辿り着く前に日が暮れ、2度目は着いた途端に車の外に出るのも躊躇すっほどの土砂降りの雷雨orz 3度目の訪問にしてやっとスタンプをゲットできたで。


 円福寺は、新田政義によって茶臼山古墳の上に築かれた真言宗の古刹。以来、政氏、基氏、朝氏の四代の位牌が保存されてるとゆう。
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現地案内板


 新田政義は新田本宗家4代当主(義貞公は8代目)、Wikipediaから引用すっと
仁治3年(1242年)4月、幕府から預けられていた囚人に脱走され、過怠料として三千疋を納めた。寛元2年(1244年)6月、京都大番役として在京していた政義は幕府に無許可で昇殿と検非違使への任官を求めた。無許可任官は幕法に違反する行為であるため、幕府との騒動を怖れる朝廷に拒否される。政義は幕府や朝廷に無許可で出家し、大番役を中止して新田荘に帰り幕府への出仕を拒否した。

無許可の任官や自由出家は所領を没収されるような大罪であったにもかかわらず、妻の実家足利氏の働きかけがあったのか、所領の一部と惣領職を没収されたのみの寛大な処置で済んだ。政義は円福寺を創建して隠居した。

新田氏惣領職は庶家の世良田義季と岩松時兼らに分けられ、「半分惣領」として両者が新田氏を率いることとなった(まもなく義季の子頼氏と時兼の子経国らが家督を継いだ)。正嘉元年(1257年)に71歳で没し、長男の政氏が父の後を継いだ。墓は、自らが開基した群馬県太田市の円福寺にある。

政義の軽挙妄動により、新田氏の没落は決定的となり、新田本宗家は『吾妻鏡』にも登場しないような一地方御家人に零落した。

 この政義の乱心を契機に地方御家人に凋落した新田氏と、片や幕府の有力御家人となってった足利氏・・・


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円福寺本堂・再建され、まるで中国の寺院のようだぃね

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石段脇の青面金剛(延宝八年(1680) 三猿 二鶏)

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千手観音堂へ


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千手観音堂・観音様は拝観できず

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周りは樹が鬱蒼としてて、とても薄暗れぇんさね。

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古墳鞍部には、16体の神像が安置されてっつー十二所神社
神像は拝観できず

 十二所神社神像についての解説はこっち。(太田市ホームページ) 

 墳丘近くには「国良親王御陵の碑」もある。(国良親王伝説については後述予定)

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室町時代の石幢(せきどう)・先祖供養のための石造物


そして境内南には「伝新田氏累代の墓」があるんさね。

夕方に来たからしょーがねぇが境内は蚊のいっぺぇいて辟易だぃねぇ・・・

(「伝新田氏累代の墓」へつづく)

b0004675_23314267.gif円福寺・十二所神社 (ちず丸リンク)
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by dr_suzuki | 2010-08-22 18:46 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2010年 08月 21日
J2 第23節 vs 大分トリニータ
b0004675_22165610.gif大分トリニータ 1-0 ザスパ草津

 J'sGOALの速報とTwitterが頼りのアウェイ大分戦。

 残念ながらオウンゴールで敗戦・・・・「好事魔多し」とはこのこときゃ。
 次のホーム戦から仕切り直しして、また勝ってぐんべぇよ。
 
 遠征された同志の皆様、ご苦労さんでした。気ぃつけて帰ぇってきてくんなぃ。

 ・・・来週はシマに会えるんが、まぁず楽しみだぃね。

 現在暫定14→15位 (6勝5分11敗;勝点23、得失点差-11)

【J2:第23節 大分 vs 草津】レポート:草津の連勝ストップ。大分はオウンゴールを守りぬき、何より手にしたかった勝利で自信を得る。(10.08.22) (J'sGOAL)
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by dr_suzuki | 2010-08-21 22:54 | ザスパ | Trackback | Comments(0)
2010年 08月 19日
木崎宿色地蔵 (太田市新田木崎町)
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木崎宿色地蔵 (太田市新田木崎町)


 某日朝、通勤途中にまたも遠回りしてスタンプラリー対象の木崎宿色地蔵に行ってみたで。

 今年の「おおたんの史跡探検スタンプラリー」の中で、最も異色なポイントはここじゃねぇん?郷土史にちったぁ明りぃと自負するオレでも知らなかったで。スタンプラリーがなかったら訪れることもなかったぃなぁと思わぃね。・・・確かに県道より奥まってて、ちっとわかりづれぇ所にあるんで、スタンプラリーやってる子供たちもポイントをめっける楽しさもあるんだとは思うんだけんど。

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現地案内板


 『木崎音頭』をネットで検索すっと、以前謳われてたという猥雑かつ悲しいその歌詞や、貧困のため飯盛女として働かざるを得なかった女性たちの哀話を綴ったページをおーか見ることがでぎらぃね。

 歴史には常に光と影があって、その影の部分を知るっつーんも、それもまた勉強になるんじゃねーきゃとは思うんさ・・・だけんど、夏休みにスタンプラリーに興じる年端もゆかねぇ良い子の小学生に「ねぇねぇ『飯盛女』ってなんなん?」って聞かれたら、大人は説明する言葉にきっと窮しちゃうんべなぁ。

 お地蔵様は茅葺の堂に入ぇってるんで、お祈りした後、失敬してガラス越しに地蔵様の画像を撮らせてもらったぃね。(画像の一部を修正したで)
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 木崎宿色地蔵 (このあたり;ちず丸リンク)

b0004675_21543692.gif これでスタンプラリーは15ポイント。賞品獲得の権利17ポイントまであと2つ!


 (スタンプラリー;この日は了)
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by dr_suzuki | 2010-08-19 07:36 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)