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2009年 02月 27日
金山丘陵の山々の名は如何や
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太田市役所展望階より金山を望む(2008年10月)

 プチ民俗学者シリーズ(笑) 今回の記事も長ぇよ。

 八王子丘陵のことをいろいろ調べていぐと、峯それぞれに名前があるらしいことがわかったぃね。
 んじゃぁ、太田のシンボル金山丘陵にもいくつかの峯があるけんど、こっちはどうだんべか?

 太田市のサイトや現地の案内板によると金山には根本山、観音山、浅間山あるいは大・中・小八王子山とかの峯の名前があることがわかってきたぃね。でも北山コースを歩った時には、北のピークは案内板にも、その名前がなかったんさ。ピークがあれば名を知りてぇんは人情?ってもんだぃね。しかし・・・身の回りにある資料をいくら漁っても、峯の名前はわかんなかったぃね。八王子丘陵の山々と同じく、長い年月の間に忘れられちまったんかもしんねぇな。

 こないだ桐生市立図書館で『藪塚鑛泉案内』をめっけてコピー(大量(笑))してもらってた時に、おーか手持ち無沙汰なんで、郷土史の本棚に目をやったところ・・・・そこにその名もズバリ『金山』とゆう明治44年(1911)に書かれた本があったんさ。何気なく手にとってめくってみっと・・・・
 
そこにはずっと探してた金山の峯々の名が書かれてたで!

 峯の名前はもちろん各山誌、植生や名産まで書かれてる。こりゃすげぇもんめっけたなぁ。もちろんこの本もコピーを取ったのはゆうまでもねぇやぃね!

 一世紀近く前に記された『金山』より、金山の略図の写しを謹んで引用。
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 著作権も切れてるんだんべぇから全部PCで気合入れて打ち込んでみるべぇか!と思ったけんど・・・すぐに気力が萎えたorz (長ぇし、旧漢字が打ち込むんがおーか面倒なんで)

 まずは図に描かれてる山から、現在の2万5千分の一の地図と照合してってみんべぇ。(漢字は旧字体でPCで変換でぎねぇもんは新字体で入力。「;」以降はオレの注釈。 このブログでも何度か金山を散策した記事を載っけてるんでリンクしてみたで。)

實城山(金山)の一群
實城山(みじょうやま);新田神社がある頂上付近の主峰。ただし明治時代の迅速測図(1880年代)でもこのピークは「金山」と記されてらぃね。「實城山」という名称をよしとしねぇ研究家もいると聞くで。山の概要は太田市のシンボル金山 (太田市役所ホームページ) をみてくんなぃ!
・實城山の北には根本山;山頂に石祠がある。
b0004675_22105372.jpg高鳥屋山(たかどややま);現在の184m峰。以前山頂付近を歩った時は右の画像のように何もなかったぃね・・・
西山;大光院の西裏の山。
淺間山;山頂に浅間神社がある。迅速測図では「裏山」と書かれてらぃね。
八幡山;西中学校の北にある、金山南西の独立丘。古墳がある。



八王子山の一群
小・中・大八王子山、図では南・中・北八王子山;2つの呼び名があったみて。迅速図では小・大八王子山となっているだけんど。本文中の脚注によれば寛政4年の『金山絵図』では、八王子山の大・小の表記が逆になってるんだそうだぃね。今はFM TAROの送信所があるんさね。西麓に「桜の井戸」があるで。
b0004675_826787.jpg井戸ノ上山;現在山頂に休憩所(右の画像)、親水公園などがある山。
太郎四郎山(たらしねやま);受楽寺の裏の群テレ中継所のある山。この本によると当時東側には梅林があって「梅山」とも呼ばれていたようだぃね。でも迅速測図では「茶臼山」ってかかれているんだけんど??;現在の93m峰
天神山;現在山頂に高山彦九郎を祀った高山神社。この本が書かれた時には神社は南の中腹にあったとあらぃね。すでに「高山」とも文中に注釈あり。
・旧山田郡側には富士山■山(■は亀の旧字)、焼山という支脈の名。現在の旧・現国道122号周囲の山。
※八王子山・井戸ノ上山等を「東山」といふ;「東山球場」の名はこれが由来と思われらぃね。

北部の一群;長手越以北
b0004675_8161375.jpg長手ノ裏山;「こどもの国」の北に連なる山。『群馬の地名をたずねて』では「長手山」との記載もある。右の画像はこどもの国駐車場からみる125m峰。
・この峠以北の山々は名称不詳とあり、北の最果ての峰山のみ記載がある。;峰山にはいったことがあるけんど、山頂が判然としねんだぃね。(強戸口の山々
・そして西北の独立丘、米山。一名「丸山」とある。;今は丸山と書かれることが多いぃんさね。


 その他にも本文を読んでぐと、以下の山々が紹介されているんさね。

b0004675_22114796.jpg・大八王子山東に並木山;現在は大八王子山の鞍部に道が通っている。 
・井戸ノ上山東に十林木山(じぶりんぎやま);熊野神社の裏手の小丘
・實城山への「南方より正路の左に見ゆる瘤をいふ」とある梶山;現在地図でドライブウェイから分かれて金山城跡に至る破線の西側の山?
・井戸ノ上山の西麓の一小岡阜を茶臼山と稱す。;現在ジグザグの登山路があるところかな?
・亀山の東に當り桐生街道の東方に蜿▲(▲は虫へんに延)せる低丘、◆の山;◆は「塩」の旧字
・天神山の北に當り、金山登路の東に沿うて一小丘あり。これを観音山と稱す;東山球場のライト裏にある小丘で山頂に観世音があるで。(右の画像)
・根本山を一に「天神山」と稱し、其の東に続ける丘背をも観音山と稱す。その北斜面に長石と稱する長大なる岩石あり。人工のものにあらず。;確かに摩訶不思議な長ぇ石があるんさね。


・長手村から今泉村へ越ゆる「長手越」(名称は筆者の仮称とのこと);ちっと歩ってみてぇ。
・入太田から南金井に越ゆる「比丘尼坂」;戦後大きく切り通されて(松風峠)車の通行も可能。
・「笹ケ入から東に越ゆる峠」;文中には記されているが、峠の名称は不明。現在は車の通行も可能。金山キャンプ場の入口。

 おまけに「太田中学校二階ヨリ望ミタル金山丘陵群」とゆう図絵もあった。下に引用すると
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 下はカシミール3Dでオレが作成してみた現太田高校からみた金山展望。おーそっくりだぃね(笑)
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 昔の人は、周りの人とコミュニケートするために、身近な峯や峠それぞれにちゃんと名前をつけてたんだろうね。こーゆー名前って、先人が残してくれた立派な地域の文化遺産だと思うし、ずっと守っていかなくっちゃなんねぇと思うんだぃね。古い文献で掘り起こした峯の名前、ぜひまたみんなに再度浸透してぐといいやぃねぇ。皆様の金山散策にぜひお役立ててくんなぃね。

 まだまだ金山丘陵にも未踏な峯がいっぺぇ残ってらぃね。花粉の季節が終わったら、また金山を歩ってみんべぇや。

【参考文献・サイト】

『金山』 今泉訓太郎 p1-19 太田中学校校友会 1911
『群馬の地名をたずねて』 群馬地名研究会/編 上毛新聞社 1998
太田市のシンボル金山 (太田市役所ホームページ) 
歴史的農業環境閲覧システム (←1880年代の迅速測図がみられる貴重なサイト)

【重要な追記・情報】 mさん、すんげぇ情報あんがと~

 この『金山』、所蔵してるんは、国会図書館・桐生・伊勢崎だけで、群馬県立図書館にも、地元太田市立図書館にもねぇんだそうだぃね

・・・・で、すんげぇ情報!
この『金山』、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で公開されてるんだと!!いやぁ便利な世の中になったもんだぃね。

 近代デジタルライブラリー (国会図書館) →検索で「太田中学校」と入れてみてくんな!
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by dr_suzuki | 2009-02-27 22:41 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(6)
2009年 02月 25日
御所山 (太田市西長岡町) ~ 惟喬親王伝説の山は何処へ
 スギ花粉が飛ぶようになって、オレの今シーズンの山歩きもそろそろ終りの時期が近づいてきたぃねぇ。今年の山歩きの総括・・・ってわけじゃねぇけんど、いくつか今年1年の研究?の成果もあわせて、ここにまとめてみっかと思うんさね。(はぁすっかり民俗学者化してんなぁ(笑))そんなんで今日の記事はおーか長げぇよ。

 昨年の「続・田山花袋も訪れた西長岡鉱泉「長生館」跡は何処に」の記事以来、機会あるごとに、ずっと長生館のことを調べてたんさね。勢いが嵩じてついつい長生館のポストカードなんてーのも収集したりしたで。結構集めてみたんだけんど、一部をご紹介すらぁね。
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こんな彩色のもんもある。
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 いろんな情報を総合すっと、長生館の場所は概ね前回の記事の通りでいんじゃねぇかと思うんさね。当時3階建てってゆーのもまっさか豪儀だったんだねぇ。他にも調べていぐ上でいろんな文献にあたったし、いろんな方と意見交換したり、尾島の太田市教育委員会文化財課で調べさせてもらったりもして、旧新田郡北部の山々の名前もだんだんわかってきたで。

 でもいろんな文献をあたると一つだけよくわかんねぇ山があるんさ。前にも紹介した『上野名蹟図誌(佐波、新田、山田、邑楽の巻)』 (1901版復刻 p94 歴史図書社 1980)にも触れられてる「御所山」だぃね。もう一度その部分を引用してみっか.
長岡鉱泉
 強戸村大字西長岡に在り。発見の年代詳かならず。泉質は塩類泉にして痛風、婦人生殖器病、肝充血等に効あり。明治二十一年十一月初めて鉱泉の分析を東京衛生研究所に請ひ、小川某なるものここに浴場を開き長生館といふ。館内に温冷二様の浴場を設け庭園頗る広くして閑静なり。
 此処より僅かに五町許りにして御所山といへる山あり。往昔、惟喬親王の住み給へし長岡宮の旧跡なりと言伝ひ風景甚だ佳にして愛観すべし。藪塚鉱泉を距る纔かに二十町許りなるを以て相往来するに便なり、故に夏季は浴客多く甚だ殷賑なり。
一町は約109mなんで、五町は約500mちょっとってところかね。

『太田市史 通史編 民俗上』の中にはこんな記述もある。
御所山というのは、もとの長生館の裏にあるとがった山で、ここには惟喬親王の宮があったといわれているところ。御所山への入り口を御所入という。
 この御所山はしばしばこのブログでも引用している『毛野時報』の新井信示氏の「八王子山脈縦走記」によると
 入長岡と中廣澤とを連絡する籾山峠(百九十二米)を横ぎる。行く手は篠の生えて居る急峻な上がりで此のコース中に於ける「胸つき何町」とか申すべき處である。篠に縋りながら喘ぎ喘ぎ上がれば根元山二百六十米の頂上で、正に強戸薮塚兩村境界の一角に當って居る。長岡方面で御所山といふのはこの山の事であらうか。
 もちろん『上野国郡村誌』の西長岡邨にも「御所山」は触れられてて以下の記述がある。公的文書の郡村誌では、惟喬親王が「某皇子(其名ヲ逸ス)」と無下にされてらぃね。
御所山
髙拾五丈、村ノ北西ニアリ、北方髙尾山ニ接シ西方藪塚邨ニ属ス、山上松及雑樹ヲ生ス、邨人傳ヘ言フ、往昔某皇子(其名ヲ逸ス)謫セラレテ此国ニ流サレ此地ニ居ル、薨シテ此山ニ葬ル、故ニ御所山ト云フ、其居リシ処ヲ天王山ト云フト、其説曖昧信ヲ措クニ足ラスト雖ドモ、其地名ニ即テ之ヲ考フルニ或ハ亦然ルモノアラン、(後略)

b0004675_1810614.jpg  西長岡の惟喬親王伝説精神的支柱の山であるし、昭和初期の紀行文である「八王子山脈縦走記」の記述も鑑み、郡村誌で拾五丈(一丈は約3mなんでわずか45m??)と標高がまぁず低く記載されてるんは気になるけんど、「御所山」は籾山峠西の旧太田市最高地点に違ぇねぇ!と思ってたんさ。(画像の中央の山;形もかっこいーし) 事実、太田市教育委員会文化財課で拝謁した小字図ではこの山の南の多くは「御所ノ入」という小字名になってたんで、オレは更に確信の度合いを高めてたんさね。

 と こ ろ が

 ・・・・先日、太田市SNSでお知りあいになった某氏から、とある情報をもらったぃね。それは『藪塚鑛泉案内』(大正15年刊)という本に、西長岡鉱泉のことが詳しく載っているという情報だったぃね。調べてみっと桐生市立図書館と太田市立図書館に所蔵されてるらしい。家からは桐生の方が若干近ぇので、桐生市立図書館まで行ってその本をみてみた。そこには驚愕の新事実が!!

 まずは口絵にあった「東武線藪塚鑛泉図絵」を謹んで引用(彩色されてたけど白黒コピー;クリックで拡大するで)
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御所山は籾山峠の西の山じゃねぇやぃね! あれは根元山なんか!
図中の「御所山」は、雷電山と長生館の間に描かれてる!

じゃぁ御所山っていったいどこにあったん!?


 郡村誌には根元山も根元神社の記載も一切ねんさね。フツー村の最高峰を山の項に書くもんじゃねんかい?(笑)
 藪塚の山も見慣れぬ名前がいっぺぇだ。良く見ると文化財情報システムでめっけた「蚕影山」も載ってねぇし・・・違う名前で呼ばれてたんきゃ?? わずか80年かそこいらでこれら山々の名称がほぼ消えちまってor変わっちまってんのもなんだかなぁ。

 んじゃ、さらに『藪塚鑛泉案内』を読み進めてぐと・・・(以下、旧漢字でPCで変換不可能のものは新漢字に改めたけんど、原則原文のまま)
p3 位置と地勢
 當鑛泉は湯の入、西長岡、瀧の入の三鑛泉で之を總稱して俗に「藪塚鑛泉」と唱へ北新鑛泉同業組合の名に依って、凡てを統一されて居る。北新の冠詞は其位置を示した者である。
 湯の入鑛泉は群馬県新田郡藪塚本町大字藪塚の東端に位し、八王子山の支脈雷電山の西麓に抱かれて居る。
 西長岡鑛泉は同郡強戸村大字西長岡の西北隅に位し、八王子山の支脈、御所山の東麓にある。
 瀧の入鑛泉は、同郡藪塚本町大字藪塚の東北、八王子山の支脈、大平山の南麓にある
b0004675_739321.jpg なんとまぁ、西長岡鑛泉は御所山の東麓なんかぃ?もし籾山峠の西の山だったら南麓って書かれるだろうから、あそこはもう根元山で決まりだぃね。(→これまでのブログの記事も「根元山」に訂正しとくね。新井氏の最後の一行のせいでまっさか混乱しちゃったなぁ。新井氏は太田中学の関係者みてぇなんで、まぁ許しちゃうんべぇや。右画像は長生館のあったあたりからみた「根元山」)

 さらに
p10 鑛泉地の起源
 西長岡鑛泉は舊記不明なるを以て之を口碑に徴するに其發見は遠く千有餘年の昔である。
 文徳天皇の皇子惟高親王が、御年六才の時八人の宮様と(八王子山名の起因か?)と關東に徒らせ賜ふたが、其折天王山の西北麓に地を相し、貞觀十四年二月二十六日、上野大守として御所を御構へ遊ばされたが其時親王は御所山の東麓に此霊泉を、御發見遊され、折々白馬に跨り天王山下の八幡屋敷を立ち出で、此鑛泉に御入浴遊されたとの事である。
 なぜか惟喬じゃなくって惟高と書いてあったで。まぁ開湯伝説はどこでも宮様や高僧の登場も重要なんで、これを額面通りって訳にはいがねぇんべ。それにしてもやっぱり某国の将軍様といい、高貴な人はみんな白馬にまたがるんだなぁ(笑) 八王子の由来もちっとんべ強引な気も・・・

 そして!!ついにめっけた!「御所山」!
p37 「御所山」
 西長岡鑛泉より数町距れたる西北隅の小山である。往昔惟高親王の御遺跡なりと言ひ傳へ、頂上に惟高神社を祠る。
 たったこれだけかよっ!orz でも高い峰じゃなくって小山なんか!・・・八王子丘陵の主尾根にある可能性は低いってことだぃね。

 いちよー画像つきの紹介なんだけんど・・・これオレの集めたポストカードにもあったで。画像右の石祠だぃね。「鑛泉發見ノ惟喬親王遺跡」とある。
ちなみに左は「長岡石材採掘ノ光景」・・・こんな石切場も近くにあったんかな??
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とゆーことは・・・・

b0004675_1395165.gif  茂木晃 『太田大泉の一○○年』(p176-177 あかぎ出版 2000)掲載の明治45年の地図をもとにして、まとめてみっと、『藪塚鑛泉案内』が宣伝なんでその内容は多少の脚色があるにせよ、山の方角なんかは正しく記述してると仮定すれば、
 長生館(地図の温泉マーク)は「御所山の東麓」、長生館から御所山は「数町距れたる西北隅の小山」で、郡村誌に西側が薮塚領分であって、高さは15丈、絵図中の雷電山の山裾の道は長岡から湯の入への道だろうから、御所山はその道より南にありそうだぃね。(当時は現在の県道のような籾山峠から湯の入への直通の道がなかった。右の地図を参照)

 以上のことから「御所山」は右の図の赤矢印、青矢印の峰の可能性が高けぇやぃね。このうち町村界の尾根筋にあった青矢印、緑矢印についてはゴルフ場の開発により既に削平されてるで。残りは赤矢印ってことになるんだけんど、こないだ雷電山に行ったときに、県道沿いからゴルフ場に目をやると、ホールとホールの間に山頂部が妙に残された山が残ってることに気づいたぃね。(画像を撮るんは失念!)右地図の赤矢印の小丘に相当するんじゃねぇかと。ちず丸で見っと、御所ノ入2番ホール、御所ノ入6番ホールの間だと思われらぃね。もしこの山頂(赤矢印相当)に祠があれば御所山の可能性が濃厚だいね。以前「北長岡 ~ 惟喬親王伝説の里を歩く」で紹介した惟喬親王宮の石祠は新しかったけど、すでに(青矢印のところだとしたら)御所山頂も石祠も失われちゃってて、地元の人が惟喬親王を改めてあそこに祀った可能性も高ぇような気もすんなぁ。(石祠は昭和57年(1982)建立) 緑矢印はまんま「西山」じゃねんかと。

【3月1日追記】
 子供の頃、「御所ノ入」で遊んでたとゆう方から情報をいただいたで。その場所は「赤矢印の山よりもっと北だったかも」とゆう話だぃね。確かに太田市教育委員会で見た小字図の「御所ノ入」は破線の道の北側だったぃね。でもあまり北に行ぐと「東麓」になんねぇ気がすんだけんどね。よって可能性として図に「オレンジの矢印」も新たに追加すんね。この地図の外だけんど、1880年代の迅速測図をみると、もうひとつ北の峯も可能性があっかもなぁ。・・・・まぁどっちもゴルフ場開発で失われてるんだけんどね。オレンジの矢印の雷電山からの尾根部は平坦で、ポストカードの祠周囲の雰囲気とあうような気もすんなぁ。(ただ「とがった山」との『太田市史』との記載とは矛盾すんだけんど・・・) 現時点ではこのオレンジの尾根+もうひとつ北の峰も有力候補だぃね。

 そこでお願いなんだけんど・・・・

もし双葉ゴルフ場でプレーする機会がある人がいたら、ぜひ御所ノ入2番と6番ホールの間の山頂に何があるんだか確認してほしいんだぃね。よろしくたのまぃ。

 最後に『藪塚鑛泉案内』p21に、西長岡鉱泉の紹介で、あの田山花袋の詠んだ歌2首が紹介されてたで。

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 夕日かげ、ながくさし入る山あひの
  春のいでゆは のどけかりけり

 夜半(よは)の雪に春まだあさき山あひの
  いでゆのけふり うもれたるかな


 今後も旧新田郡北部の山について、研究とフィールド調査を進めていぐつもりだぃね。ライフワーク決定!
 ここまで読んでくれてどうもあんがとね。ご意見等もよろしくたのまぃ!

 次は、太田金山を文献でいろいろ調べたんで、その考察をお送りする予定。(はぁすっかり民俗学者風情(笑))

【参考文献】
『藪塚鑛泉案内』 今井武八郎 北新鑛泉同業組合事務所発行 1926
『太田市史 通史編 民俗上』 太田市編・発行 p666 1980
『上野名蹟図誌(佐波、新田、山田、邑楽の巻)』 1901版復刻 p94 歴史図書社 1980
『太田大泉の一○○年』 p176-177 茂木晃 あかぎ出版 2000
『上野国郡村誌』 新田郡西長岡邨
「八王子山脈縦走記」 新井信示 p9-11 『毛野時報』11号 1936

【2010年9月追記】
『薮塚本町の民俗』(群馬県教育委員会 1974)のp166 伝説の項に以下の記述があるのを発見。
惟喬親王 今ゴルフ場でならしたが、御所入にお宮がある。雷電様のまわりに馬場がある。(西野)
すでに1974年以前の時点で御所山は削平されちゃってたんみてね。地図のオレンジの尾根がますます有力?

【2011年1月追記】
『藪塚鑛泉案内』p35 に「御所山頂より望雷電山」の画を発見。引用すっと、
b0004675_18223980.jpg
 まずゆえそうなことは、1.御所山の方が雷電山より低きぃんじゃねーか。2.この雷電山の右には峯があるけんど、左側には峯が見えねぇこと・・・から推察すっと、画像が裏焼じゃなけりゃ、やっぱオレンジの矢印の峯が最も有力?画像の遠近の感じから考えると赤矢印も捨てがてぇやぃな。

【2011年5月追記】
 太田市最高峰・御所山問題~太田市の役人の良識を問う!
 ぜひ御一読いただき、失われる地名について考えてほしいやぃね。
 
太田市標高最高地点の考察 ~ 275m峰・その名は「根元山」か?


 
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by dr_suzuki | 2009-02-25 18:41 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(13)
2009年 02月 24日
新川公園(新川球場跡) (桐生市稲荷町)
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「新川球場を偲ぶ」の碑
新川公園/公園北(ここがマラソンのスタート地点)/芝生
堀祐平氏顕彰碑/ライオンズクラブの碑/桐生図書館より新川公園

 今日は桐生市立図書館に調べ物があって行ってきたんさ。図書館の隣は、桐生市堀マラソン大会の会場ともなっている新川(しんかわ)公園だぃね。桐生駅南の街中にある遊具もない芝生と池だけの公園さね。ここはマラソン大会の名にその名を冠されている堀祐平氏が私財を投じて作った新川球場の跡地だぃね。

b0004675_14394794.jpg 1927年桐生中学が夏の甲子園に出場したことを記念して新川の沿いに野球場を完成させたんだと。その後、桐生中学は稲川東一郎監督の下、甲子園で活躍、春のセンバツでは準優勝2回、ベスト4を1回を果たし甲子園の常連校となったぃね。(通算出場回数26回(春12回、夏14回)も県内最多)終戦直後には、再開したばかりのプロ野球の東西対抗戦の第2戦が神宮球場が使えなくなった代替として、ここで開催されたんだと。球都・桐生にふさわしい逸話だぃね。その後も桐生には多くの野球人が生まれ、1999年には夏の大会で桐生第一高校が全国制覇をしたんは記憶に新しいとこだぃね。

 その後、新川球場はカスリーン台風で大打撃を受けるも、1961年に野球専用のグラウンドに生まれ変わり球都の礎を支えたんだぃね。しかし1987年に老朽化のため解体されて現在の新川公園になったんだと。今でも上のように公園の一角には「堀祐平氏の顕彰碑」と「新川球場を偲ぶ」という碑が建ってらいね。

 かつて栄華を極めた街・球都桐生。当時のプロ野球で現在のJリーグのような地域で支えるクラブチームでの運営・参戦が可能だったら、ここ新川で「桐生シルクス」なんてプロ野球チームもできてたかもしんねぇなぁ。最近、桐生市は「野球博物館」を計画中って話を小耳に挟んだけんど、博物館に最適なんは、ここ新川球場跡じゃねぇんかねぇ。(公園なくなっちゃうけど)

 こないだ三束雨さんのブログで新「ぐんまカルタ」が紹介されてたぃねぇ。「え」の札は栄冠は君に 高校球児」なんだけんど、絵札が勝ってるチームのユニホームのデザインは「MAEBA」になってるけんど、やっぱ「KIRYU」のほーがいんじゃねん??

 新川公園 (ちず丸リンク)

 ・・・忘れもしねぇ昭和59年夏の群馬県予選、母校太田高校が桐生高校を破ってベスト4に進出したときには、「あの野球の名門に勝ったで~!」ってみんなで大喜びしてスタンドで校歌を大合唱したっけなー(笑) そこで運を使っちまったんだか、次、負けちゃったけんどね。
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by dr_suzuki | 2009-02-24 23:13 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(4)
2009年 02月 21日
ユニ2009モデルのアイコン
2009シーズンのユニが発表になったんで、恒例のアイコンを作ってみたで。
ご自由に使ってくんなぃ!

ホーム用
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しっかしオーセンティックとはいえ、背番号なしでも16800円は高っけぇなぁ。orz
この価格じゃ「そろいの支度で・・・」って訳にはいがねぇだんべ。
ユニクロ時代がなつかしいんねぇ。

アウェイモデルアイコンも完成次第載せみっか。

【追記】多分に推定を含んでるけんど・・・いちよー作ってみたで。

アウェイ用
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【以前のユニアイコン↓】
ユニ2008モデルのアイコン
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by dr_suzuki | 2009-02-21 09:39 | ザスパ | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 16日
旧籾山峠を歩く (入長岡⇔中廣澤)
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太田西長岡より旧籾山峠へ
切り通された現籾山峠道/車通行止看板/スギ花粉飛散間近
旧峠付近東側/桐生広沢・境野方面を臨む/桐生側茶臼山ハイキングコース入口

 かつて八王子丘陵にあった五条の峠道。西より黒石峠八王子峠、籾山峠、菅塩峠唐沢峠。現在はちょうど真ん中の籾山峠のみ県道(桐生新田木崎線332号)となって車の通行が可能になってて桐生南部と太田北部・薮塚方面とを結ぶ幹線になってるんさね。菅塩峠は古くは県道だったらしく、改修工事が行われた記録が残っているとのことだけんどね。他の4本の峠道は多くの人にとっちゃあすでに忘れられた存在になってるけんど。

 旧籾山峠の道は、昔は太田側の峠手前にちっちゃいヘアピンがあって「プチ頭文字D」だったけんど、コースは薮塚方面まで入れても短けぇし狭めぇし(意外に)幹線道路なんで事故が多かったみてぇ。おまけに峠付近に心無ぇヤツらが大量の廃家電やゴミの不法投棄をしてってゴミの山だったぃね。こーゆーことを防ぐ目的なんか十年ぐれぇ前に県道は、旧峠のちっと下に深く切り通されて、峠付近はほぼ直線道路になったぃね。

 ちょうど雷電山から車の停めてある桐生市斎場入口まで歩ってぐことになったんで、この籾山峠旧道がどうなってるんか歩ってみた。(たいそうなタイトルをつけてはみたんだけんど、おおよそ200mかそこいらだぃね。)

b0004675_22281990.jpg 太田側から行ぐと切通し部の手前で左に曲がるところがある。ここが旧峠への入口で車両が通行止めになってる。周りには相変わらず不法投棄が多ぃいやぃね。道を進むとまだアスファルト面もはげてねぇし、普通の道だぃね。東側に峠道をはさんだ高尾山を眺めつつ(左の画像)ヘアピンを曲がると、目の前に旧峠がめぇる。傍らに目をやると花粉を大量に充填したスギが(泣)間もなくオレの今シーズンの山歩きも終了だぃねぇ・・・

b0004675_15315866.gif  旧籾山峠に到着。以前から比べると桐生側にちょっとした広場ができてて、桐生広沢や境野方面が一望でぎる。振り返ると薮塚方面がみぇる。(20年ぐれぇ前に旧峠で無線をやったとことがあったけんど、全然電波は飛ばなかったなー)ここまではいちよー二輪車でも来ることができるんだけんど、こっからは先(桐生側)はフェンスがあって、歩って下れる段々っきゃねぇで。段々を下ってぐと茶臼山ハイキングコースへの入口と合流。しばらく進むと広沢側で現県道に合流すらぃね。

 そのうち、この旧道もアスファルトもはがれて、いつしか他の峠道みてぇに人々の記憶から消えていっちまうんだんべなぁ。

【右図は、カシミール3Dで国土地理院「ウオッちず」公開データに、今回のGPSのルートデータを読み込んだものを引用。】

 花粉の飛び始めた如月の日の探検もこれにて了。
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by dr_suzuki | 2009-02-16 15:48 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(4)
2009年 02月 15日
雷電山 (太田市薮塚町湯ノ入) ~ 古の狼煙場を訪ねて
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雷電山(太田市:193.6m)山頂と石祠
県道桐生新田木崎線より雷電山を臨む/切通しの入口/ここが水場らしい
虎口の石垣/山頂に到着/山頂より根元山を臨む

 今日の目標は、砦跡があるとゆう雷電山を探検。

 以前、サイトを彷徨してるとアオ氏のサイト「北緯36度付近の中世城郭」に行き当たり、そん中の「群馬県太田市周辺の城郭」で、雷電山砦が詳しく紹介されてたんさ。太田市教育委員会の「太田市の文化財」では「のろし場として利用され、現在、腰郭・堀・竪堀などが残る。」あるで。こないだ太田市の文化財課で小字図である「太田市地籍集成図」(昭和63年)を見せてもらったとき、この山の山頂は薮塚領分だったぃね。(後に市町の境界の変更があったんか、旧太田市/新田郡薮塚本町の境界の山になったみてぇだ。;文化財情報システムでは備考に「2市町に跨るため、太田市と協議の上位置を整合した」とある)現在は市町村合併で太田市になってるんだけんどね。何度か行ぐ機会を窺ってたんだけんど・・・ここの難点は最寄に駐車スペースがねぇことだぃね。

b0004675_23335582.jpg 薮塚温泉街を通ってぐと、メインストリートの前面に円錐状の山がめぇる(左)。それが雷電山だぃね。雷電山ってことは山頂に雷電宮があるんだんべぇ。こないだ楚巒山楽会代表幹事さんが登って、山頂の西側にぼっこわれてた石祠を発見して復元してきたっつー話だぃね。ちょうど蚕影山との鞍部が切り通しになってる県道の脇に強引に車を停められるような気もすっけど、ここはカーブで見通しがなっから悪りぃんで通行の妨げになるような気がして、気が引けた。今日は天気がいーんで、ちっと遠くから歩ってみてもいいかと思い・・・山向こう(笑)の桐生市の斎場入口の駐車場に車を停めて、県道桐生新田木崎線沿いに歩って籾山峠を越えて、ゴルフ場の脇、西長岡への分岐を道なりに薮塚方面へ、てくてく歩ってぐ・・・陽気がいーせいか、予想以上にスギ花粉が飛んでるようだぃね。鼻づまりとくしゃみが・・・・更に進むことしばし、切通しとなってる雷電山の雰囲気ある入口にたどりつく。

 入口から山を登ってぐと土壇?があって、そこの西側の岩がむき出しのところに水が湧いてた。ここは水場として使われてたとゆうことだぃね。更に上に登ってぐと確かに石垣が存在してるところがある。ここが虎口なんか。上に行ぐと・・・・この辺からあたりは背丈もある猛烈な笹薮だらけorz これを凌ぐべぇで、全然周囲を見る余裕なんかなくなってきたで。でも山肌は段郭状になってるのは浅学なオレでもわかったで。藪を漕いでいぐことしばし、急に辺りが開け山頂に到達。山頂の西側には楚巒山楽会代表幹事さんが復元したとゆう石祠を発見。これが雷電宮なんだんべなぁ。湯ノ入の北東のほうからも上ってきられるんかな?

【追記】『薮塚本町誌・上』(1991)によると、この石祠には「明和四亥年八月吉日」と彫られてたらしい。はぁ読めなかったんだけんど。明和四亥年は1767年。

 山頂で無線をやってみたら、さいたま市の局と交信できたんだけんど「太田市の雷電山との交信は初めてです」とゆわれたで。そりゃそうだ、こんなところで無線をやる酔狂なヤツもきっと空前絶後だんべぇからな(笑)

 下りはまたもや激しく笹薮に苦しめられ、見事に道をロスト。枯葉に足を滑らせ、県道を走る車の音を頼りにやっとのことで下りられたけんど、上ったところからはるか東側に下りる始末。

b0004675_23342641.gif 【右図は、カシミール3Dで国土地理院「ウオッちず」公開データに、今回のGPSのルートデータを読み込んだものを引用(往路のみ)。ルートは短けぇんだけんど、薮漕ぎのため時間は結構かかってる。フラッグマークは石祠(北緯36度21分52秒25,東経139度19分38秒21;標高189.5m)】

 ここは八王子山、茶臼山や丸山から比べっと、その遺構がまだまだ残ってるみてぇだから、ぜひ太田市は金山みてぇに、ここに砦を復元したらどうだんべか?薮塚温泉のこれまでとは違う名所になるんじゃねぇんかねぇ。

 帰ぇりもまた県道沿いを引っ返して、籾山峠を目指しててくてく歩ってぐ。(つづく)

【参考サイト】
群馬県太田市周辺の城郭」 (北緯36度付近の中世城郭)
太田市の文化財 (太田市教育委員会)
蚕影山 (やまの町 桐生)

【参考文献】
『薮塚本町誌・上』 p281-287,及び p862 , 薮塚本町 1991

【追記】
『藪塚鑛泉案内』(今井武八郎 北新鑛泉同業組合事務所発行 1926)の「名所とご舊蹟」p24に雷電山の記述があったんで引用するで。
『藪塚鑛泉案内』 p24
 雷電山

湯の入鑛泉の後方の峯續きて東端が可成りの高峰になって頂上には老松數樹と、石宮の雷電神社が祠れてゐる。四顧展開して風景は、頗る勝れて居る。山の中段に馬場跡あり、建武の昔新田義貞公が見付を置き、馬場を造り、多くの將卒を練習せられし跡なりと言ひ傅へられてゐる。同所には組合にて露臺數基を据え付け遊覧者の休息所にあててある。
・・・すでに80余年前に観光地化されてるし(笑) 新田義貞公云々は後世の資料じゃみることができねぇやぃね。戦前は義貞公は南朝の忠臣だったんで、義貞公のネームバリューにあやかったもんなんだんべね?

『薮塚本町の民俗』(1974) p82には以下の記述がある。
雨乞い 部落中でやる。雷電山にある雷電様へ神酒をあげ、水を持っていって石祠にかけ、太鼓を打ち鳴らして雨を呼ぶ。降るまでやる。三日間続けたことがある。どうしても降らないと赤城神社(大洞)や板倉の雷電神社へ一升ビンを持ってお参りに行き、水を受けてきて、又やった。
 雨が降るとアメップリとしてお礼をした。(湯ノ入)
 地元の庶民としては、城郭や馬場跡っつーよりも雨乞いの場所だったんだんべな。雨乞いもやる時代じゃねぇから石祠も壊れたまんまだったんかもね。
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by dr_suzuki | 2009-02-15 23:51 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2009年 02月 15日
西山 (太田市薮塚町湯ノ入)
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手前の小丘が西山(推定)
斜度11%/踏み跡発見/山頂付近・・・何もなし

 今日は風もなく穏やか、春の陽気。午後暇になったんで急遽、薮塚に行ってみることにしたで。こないだ探検できなかった中世の砦跡があるっつー雷電山に行ってみっか。その前に地図で見ててちっと気になった小丘に、まずは行ってみることにしたんさね。

 やぶ塚温泉街のホテルふせじまの西側の小高い丘。南端の小丘は公園(なつめの里)になってて、西山古墳もあらぃね。古いポストカードでは「西山公園」とあるし、温泉街の西側にあるからまんま「西山」なんだんべな。2万5千分の1の地図では標高132m。群馬県文化財情報システムでこの山の北側には諏訪山古墳群があるんで名称はぼっとかすっと「諏訪山」じゃねんかとも思う。(→地元の方、間違ってたらご指摘たのまぃ!)諏訪山とゆうからには山頂に諏訪神社の石祠でもあるんじゃねぇかと。

 東側の温泉街からの道を車で行ってみた。標高の割には斜度11%で結構な坂道。中腹に山頂付近に延びる踏み跡を発見。

b0004675_19184713.gif こっから登ってみた。山頂付近にはほんの少しで到達。周囲を探索したんだけんど石祠等はめっからず。三日月村の園内放送が良く聞こえるで。こっからまっと南進してげば西山古墳に行ぐはずだけんど・・・薮塚温泉に寄ったときにでも、まっとじっくり探検することにすんべ。

【右図は、カシミール3Dで国土地理院「ウオッちず」公開データに、GPSのルートデータ(上り)を読み込んだものを引用。ダッシュなら数十秒で登攀可(笑) 一番南の小丘に西山古墳があるんさね。】

 さぁ次は雷電山にいってみっか!

【追記】
『薮塚本町誌・上』(1991)によると、諏訪山とゆうのが確かにあるらしい。(場所は不明)そしてそこには「お諏訪さま(破片)」があるそうだぃね。1991年以前にすでに「破片」の状態じゃ、はぁ見っつけらんねぇかもしんねぇねぇ。

【参考文献】
『薮塚本町誌・上』 p873 , 薮塚本町, 1991


 (つづく)
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by dr_suzuki | 2009-02-15 19:28 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(4)
2009年 02月 11日
矢抜神社の山椿 (太田市新田下江田町) 【椿】
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矢抜神社の山椿 (太田市新田下江田町)
矢抜神社/蕾はあるんだけんど・・・/あんま咲いてねぇや

 世良田の帰ぇり新田下江田の矢抜神社に旧新田町の天然記念物に指定されてる山椿があるって話を聞いたんで、冬の「東毛花めぐり」っつーことで、どんなもんかとちっと寄ってみることにしたで。

b0004675_2229653.jpg 矢抜神社・・・おーかわかりづれぇところにあるんね。着いてはみたが駐車場ねぇしorz。入り口近くの車一台分の空き地に停めさせてもらう。一見さんにはつれぇやぃね。

 社殿の東側に説明看板と史跡の石柱(右)が立ってらぃね。この後ろに2本立ってるのが山椿の樹なんだと。肝心の椿の花はとゆーと・・・・殆ど咲いてねぇし orz ちっと季節には早かったか・・・まぁせっかく来たんだし、デジカメに収めとくかと思ったけんど、まぁず風が強くって上手く撮れねぇね。絵的にはおーか悪りぃんだけんど「天然記念物」ってことでカンベンしてくんなぃ。説明看板によると、この山椿は樹齢300~400年と推定されるんだと。

 社殿のあたりは前方後円墳に建てられてるらしいけんど、浅学なオレははぁ古墳って感じに見えなかったぃね。(まぁ東毛地区の昔からの神社とか寺院は古墳に建てられてることが多いんだけんどね。)

 境内には山茶花はいっぺぇあるけんど、せっかく椿を見にきたんだし他に咲いてねぇかと思ったら入り口近くに咲いている椿の樹があったぃね。(散り方と葉縁から椿と推定) 何枚か画像に収めて神社を後にしたぃね。


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矢抜神社(ちず丸リンク)
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by dr_suzuki | 2009-02-11 22:41 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
2009年 02月 10日
二体地蔵塚 (太田市世良田町)
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二体地蔵塚 (太田市世良田町)

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世良田公園の東に/道祖神/すでにボロボロの案内板
「黒沼彦四郎入道梟首遺跡」/墳丘部/お地蔵様2体

 久々の新田氏関連史跡めぐり。
 
b0004675_22385957.jpg 今日は旧尾島町の太田市尾島庁舎(左)の太田市教育委員会文化財課まで、八王子丘陵関係の文献の閲覧に行ってきたんさね。(職員の皆様あんがと~) 
 せっかく尾島まで来たんで、世良田に足をのばして「二体地蔵塚」をみてきたで。


b0004675_22431812.gif 旧尾島町世良田(現太田市世良田町)にある古墳時代の後期の円墳。この辺は以前は「世良田四十八塚」と呼ばれた古墳群があったそうだけんど、明治以降に開発され今はこの古墳を含め3基しか残ってねぇそうだぃね。でもここ二体地蔵塚は古墳とゆーより、新田氏の刑場として有名だぃね。(『上毛古墳綜覧』に「中古新田氏ノ刑場ナリシトイフ」とあるそうだぃね)

 古墳の上には「黒沼彦四郎入道梟首遺跡」(「梟首」とは晒し首のこと)と書かれた白い塔が建ってて、墳丘には2体の地蔵様が祀られてるんさ。この地蔵様の謂れを現地の表面がはげちゃって若干読みづらくなってた現地案内板から引用してみっか。
 元弘3年(1333)北条高時は西国(近畿地方)の乱を鎮めるため、弟泰家を大将として、十万の兵を京都に派遣することになった。その戦費を調達する必要から、関東地方の国々から臨時の税金を取り立てた。特に世良田には裕福な者が多いとして、出雲介親連と黒沼彦四郎入道の二人が使者になって、大勢の家来を引きつれて乗込み、五日のうちに六万貫の税金を差出せと強く要求した。これを聞いた新田義貞は法に過ぎた仕打であると怒り、直ちに家来に命令して出雲介を捕え、黒沼彦四郎の首をはねてさらし首にした。即ちここがその遺跡である。
 この一件で鎌倉幕府に強い反抗姿勢を示した義貞は、一族郎党を率い生品神社で倒幕の旗揚げをすることになるんさね。(ちなみにNHK大河ドラマ「太平記」(1991)でもこの一件の場面があったんだで。)
 
 その後、この古墳にはすんげぇ伝説が残ってるんさね。また説明板から引用すっと
 この塚について次のような伝説がある。昔、この塚の辺で毎夜人の争う異様な声が聞こえてくるので、村人は恐れをなし、石地蔵像を建立して供養したところ、その後怪しい声は止んだという。もとは一体であったが、後に普門寺にあった一体の地蔵を移し二体とした。その後、二体地蔵塚と呼ぶようになったのである。
 ・・・刑場らしいすんげぇ伝説・・・。現在は桜が植わっててシーズンは見事らしいで。旧尾島町と友好都市だった弘前市との記念植樹も植わってるし、花いっぱい運動の舞台になってるみて。でも今日は空っ風はなっから強ぇえわ、冬なんで花はねぇわで、まーずさびしかったけんどね。お地蔵様にちゃんとお参りして古墳を後にしたぃね。

 見学してぇ人?は旧尾島町が案内看板を設置してるんだけんど、ちっとわかりづれぇと思うんで世良田公園を目印に。古墳脇に駐車場がねんで、世良田公園に車を停めて、東に200mぐれぇ歩っててくんなぃ。

 二体地蔵塚古墳 (埼群古墳館)
 ・・・2002年撮影だそうだけんど、こん時は説明版がおーかきれい!今はもうボロボロだぃね。

b0004675_0574169.gif二体地蔵塚(ちず丸リンク)

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by dr_suzuki | 2009-02-10 22:49 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(0)
2009年 02月 09日
第62回上毛かるた県競技大会
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上毛かるた県競技大会・ぐんま武道館で熱い闘い
ぐんまアリーナ/トロフィーや優勝旗も/参加賞「わたしたちの地名」

 堀マラソンの終了後、痛む膝をひきずって、ダッシュで帰宅。カミさんたちと合流して、セガレが市代表(団体戦)として出場した上毛かるた県競技大会を観戦に、前橋のぐんま武道館まで急行。最後の1試合に間に合ったで。

 仮にどんなに強くても全国大会には出場でぎないとゆー性格上、これが事実上の全国大会、いや世界大会ともゆえる(笑)

 ぐんま武道館には、県内津々浦々から予選を勝ち抜いた400人弱の小中学生の精鋭が集う。セガレのチームは・・・残念ながら3勝3敗で予選リーグで敗退。まぁよくやったんじゃねぇかな。

 将来群馬に住んでれば、今日の県大会出場は「誇り」だけんど、県外に住んじまったら、屁のつっぱりにもなんねぇけどね(笑) ちなみに参加賞は「わたしたちの地名」という立派な冊子。ここに集った群馬愛に満ちた子供たちが、将来更なる郷土の発展に尽くしてほしいやぃね。

 大会の読み手の男性、「県都前橋糸のまち」の「まえばし」はちゃんと地元発音で詠まれてたで。
 武道館の帰ぇりの道、告示されたべぇの前橋市議会議員候補者の宣伝カーが脇を通る。ウグイス嬢の連呼する「まえばし」の発音は、見事な東京発音。そんなことも注意でぎねぇ郷土愛のカケラもねぇ候補者なんか、ぜひ有権者が鉄槌を下してほしいやぃね。
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by dr_suzuki | 2009-02-09 10:24 | ぐんま | Trackback | Comments(4)