丸山(米山)(太田市)を北西より望む
麓に再建された丸山薬師堂/中黒の紋も/山頂への石段の参道
中腹の祠/石仏もいっぺぇ/足利の山々の眺め
北斜面はカタクリの群生地/県道をはさんだ「小丸山」、遠くに金山/県道足利伊勢崎線より丸山
金山の帰ぇり、丸山(米山)に久しぶりによってみんべぇと急に思いたち、進路を北へ。途中上強戸町の八王子丘陵の山腹にシバザクラの公園を作ってるんがめぇるで。なっから広ぇえ公園がでぎそうだで。
目的地の
丸山着。山っつーよりは丘みてぇな高さなんだけんど、ここは立派な
独立丘。巨人(デェダラボッチ)の吸ったキセルの灰が丸山になった・・・とゆー昔話も伝えられてるんさね。戦国時代には金山城の丸山の砦があったっつーで。(たぶん斥侯用じゃねんきゃ)
昔、叔母の家が丸山の近くにあって、この山を探検するんが楽しかったぃねぇ。良く無線機もって山頂で無線やったっけなぁ。その頃山頂にあった丸山(米山)薬師堂は確か20年ぐれぇ前、火災で
焼失しちまって、麓に再建されたんだぃね。オレが子供の頃には県道よりの麓に「丸山ヘルスセンター」ってゆーんがあって、これも賑わってたんだけんど・・・・栄枯盛衰。
石段の参道とツツジ
庚申搭がいっぺぇ
山頂(114.6m;昔はここに薬師堂があった
ここに登るのはおよそ四半世紀ぶりぐれぇなんかなぁ。石段になってる参道を登ってぐ。昔は住職さんの説法を書いた短冊がいっぺぇ参道の木にぶる下がってたんさね。参道脇には庚申搭や石仏がいっぺぇ。ここが信仰の場であったとことが伺われらぃね。開山してから去年で400年だそうだぃね。山頂は薬師堂があったころから比べると「
寒山」って感じだけんど、こっからの眺めは標高が低いけんどまっさかいーんね。
下山して、山の周りをぐるっと回ってみた。西側は桜の道ができてて、もう少し早かったらよかったかもね。北斜面はカタクリの群生地になってるんさ。やっぱカタクリのシーズンも終わり。(群生地は柵で厳重にガード)
丸山宿
続いて山の東の
丸山宿まで行ってみたで。丸山宿は昔の太田と桐生の間の宿場。菅塩で、「東 丸山」って彫られてた
割れちまった道標があったことからも伺えるけんど、昔は交通の要衝でもあったんだんべぇねぇ。高山彦九郎や渡辺崋山といった幕末の要人たちもここを訪れたみてぇで碑が立ってるんさ。丸山宿通りは、かつての町並みが保存されていてまっさか風情があらぃねぇ。・・・・そんな風情をかき消すように、候補者の名を連呼する大音量キンキン声の
選挙宣伝カー来襲。オレに向けてそんなにちぎれんばかりに手を振っても・・・オレ、太田市民じゃねぇよ。
丸山 (ちず丸リンク;山は記載されてねんだけんど、石段が記載されてる)
【重要な追記:2009年2月】
太田市教育委員会文化財課で「太田市地籍集成図」(昭和63年)を閲覧させてもらったんさね。
丘陵部の小字は「米山」、宿場のあたりは「丸山」となってたで。
【さらに追記】
『山田郡誌』 p23 では「米山(丸山)」と書かれてらぃね。
米山(丸山) 西南部郡界丘陵を離れて毛里田村大字丸山の田圃中に屹立する圓錐形の小丘なり。山名の丸山は山形に基き米山の名は越後國米山藥師を奉遷したるより稱せられたるなり。地質は古生層の硅岩にして地形學上の地壘に属すべきものなり。この山海抜一○○米、比高五十米内外に過ぎざるも全山松樹鬱蒼として風致頗る愛すべきものあり。萬葉集の東歌譬喩上野歌部出の毛流夜麻(守山)を以てこの山に擬したるもの(上野名蹟考)あるもこの説如何や。
(備考)
志良登保布 乎爾比多夜麻乃 毛流夜麻能 宇良賀禮勢奈那 登許破爾毛我母
シラトホフ チニヒタヤマノ モルヤマノ ウタガレセナナ トコハニモガモ
【参考文献】
『山田郡誌』 p23