道帰り山山頂(235m)、四等三角点
笠懸温泉スタンド(休止中)/冬の赤城山/吹上集会所そばの案内図拡大
鹿田山説明看板/建岩山登山口(長い急峻な石段)/石段続く
建岩山(211m)/途中の石祠/道帰り山山頂に到着
四等三角点:地点「吹上」/無線もやってみたで/渡良瀬養護学校前の道・斜度13%
東毛低山の旅、第2弾。今日は、旧笠懸町の北側にそびえる「鹿田山丘陵」に行ってみたで。鹿田山丘陵はいくつかピークがあるけんど、最高地点は235mの「
道帰り山」。(大間々のさくらもーるの西にある山) 地元では「
みちっけぇりやま」ともゆわれてるらしいんさ。この群馬弁の響きがサイコーのピークをゲットしなくっちゃ「医療人のための群馬弁講座」管理人の名がすたるんべぇっつーことで、このピークに行ぐことにしたぃね。
みどり市役所方面から歩って「道帰り山」を目指す。秋に、ひまわり畑で賑わう界隈も、ひまわりが枯れたままの姿でまっさか寒々しいやぃね。左手にめぇる笠懸町温泉スタンドに立ち寄ってみる。あの「ふるさと創生」で
バラまかれた1億円で旧笠懸町は温泉を掘ったけんど、はぁ温泉が枯渇ちまって、この温泉スタンド、数年前に休止になったんだと・・・・・さらに北へ進むと目の前に雪化粧した赤城山と目的の山が見えてきたぃね。
前方に赤城山・左に建岩山
県立渡良瀬養護学校へつながる道路わきに吹上集会所があるんさ。そのそばに、山の地図などの立派な案内板があって、そこに歴史や各ピークの名前も記されてるんさ。案内板から少し上ると、山の上につながる急峻な石段発見。ここを上りきったところが建岩山山頂・・・・って、石段も急峻なんだけんど、段差がオレの歩幅に全然あってねんでなっから疲れたぃね。(所要約4分;約300段あるらしい)
建岩山山頂(211m)には昨年末に、楚巒山楽会さんが設置してくれた山名標があったぃね。ごくろーさんです。
建岩山山頂根本山神石碑
こっから道帰り山までの東側斜面は結構な崖になってて、転落防止用にロープも張られてらぃね。けど、こっからの赤城山~袈裟丸山~桐生・足利の山々の眺めはまっさかいーやぃねぇ。
建岩山山頂より道帰り山(北から北東方向の展望良い)
さて、尾根づたいに道帰り山を目指す。それほど高低差はなく、途中で休息用の木のベンチもあらぃね。ゆっくりと山々を眺めながら、10分弱で道帰り山山頂(235m)に到着。山頂には楚巒山楽会さんが設置してくれた山名標と
四等三角点(基準点コードTR45439428201:点名
吹上:冠字選点番号 K八 5)が鎮座。眺望は木立があって良くねぇんが残念。今はこっから北方向に下りることができっけど、昔の人はここで来た道を引き返して、「みちっけぇり」になったんだんべか?(真相は不明) 山頂で持ってきたアマチュア無線機を取り出して聞いてみっと、榛東村富士見峠に行ってた旧知のSさんの声が聞こえたので、久しぶりの交信。
帰りは来た道だと、あの急な石段がおーごとそうなんで、尾根途中から右に分かれる道を選んで、渡良瀬養護学校の裏手に下りてみたんさ。上るんにもこっちのほーがおーか楽だったみてぇだぃね。
道帰り山 (やまの町 桐生)
【追記】(2009/3/1)
▼桐生市立図書館で『
新田の史蹟』とゆう本をめっけたよ。そん中に、こんな項があったんで紹介するで。
新田義貞公陣所址
鹿田丘陵道歸りにあり、新田公義兵を生品の祠前に擧げ笠懸野に打て出し國内に於ける諸豪族の状態を視察し且つ軍勢を集むるため陣を張り鎌倉攻に向かひたるより後世道歸りと稱ふ、旗立ての峰、湯たての場、於湯の泉等の遺址あり
今でも地元でこういった伝説は残ってるんだんべか?
笠懸だと
阿左美に生品神社があるんだけんど、仮に本当にそこで旗揚げしたら、「道歸り」への進軍は鎌倉と逆の北上になっちまうんだよね。持久戦に持ち込んならともかく、一気呵成に鎌倉攻めをしなくっちゃなんねぇときに、北上して陣を張る必要があるんかな・・・とオレは思うんだけんどね。
参考文献
『新田の史蹟』 岡部福蔵 p8 1933
▼1880年代の「迅速測図」には、道帰り山のあたりに建岩山って書いてあるんだけんど・・・・