八王子神社 (桐生市広沢町4丁目姥沢) 久々の八王子丘陵探訪シリーズ。
数年前、図書館で「桐生市史 別巻」を読んでると、第一編 神社にⅧ追記の章があり、その筆頭に八王子神社の記述を発見したんさね。あぁ山頂にあった神社が麓に祀られてるんきゃと思い読み進めっと・・・祭神が八王子神じゃなくって「維喬親王」!え!?どうして惟喬親王なん?峰をはさんだ広沢にも西長岡と同じ惟喬親王伝説があるんきゃ?(西長岡では「
惟」喬親王だけんど、「桐生市史 別巻」では「
維」喬親王となってる。誤植なんか編者の誤記に由来するんか、はたまた広沢ではそもそも「維」ってことなんか・・・このブログでは「惟」喬親王に統一しとくね)
その「桐生市史 別巻」314ページより、その項をがんばって打ち込んでみんべぇか。
本来の八王子神社は、もと中広沢の周藤氏の氏神として祀られていたものと伝えられている。江戸時代は姥沢の行くの八王子山頂に祀られ、祭神は、もともとはスサノオノ命の五男三女、一般にいう八王子神で、これは比叡山の山王七社の一つとして古くから知られている。修験道の神として崇敬され、八王子山には文化年中既に籠堂が建ち、多数の修験行者が、千日行などを行っていたことが、山頂の石碑によって明らかである。またその頃から現社殿の所在地にも小石祠があったらしいともいう。
祭神として維喬親王を祀るようになったことについては、次のような伝説が行われている。もと維喬親王の祠は新田郡西長岡の地にあったという。西長岡には維喬親王の皇子長岡宮が幽居し、父宮を祀ったものがこの社であったというのである。長岡の地名もこの伝説に由来しているとも伝えている。その後年を経てこの社が荒廃しているのを、中広沢の周藤氏の祖先が広沢の地に移し今の八王子社に合せ祀ったものという。このような由緒から、八王子者の主祭神が維喬親王となったものという。現社殿は戦後広沢小学校の御真影奉安殿を移譲されたものである。
注)祀は、書中では 「しめすへん」に「己」となっている
八王子丘陵のちょうど反対側の太田・
西長岡には 惟喬親王伝説が伝えられ、山や川の地名の由来になってたり、惟喬親王宮が祀られてたりしてるんだけんど、昔は八王子峠(姥沢峠)越えや籾山峠でつながっていた広沢側にもちゃんと祀られてるんだねぇ。西長岡の「その後年を経てこの社が荒廃しているのを」っていうのがなんともトホホな気分だけんど。
じゃあ一度は中広沢の八王子神社に一度は行ってみねぇとなぁ・・・と思ってたんだけんど、土地勘もなかったんでそのまま月日も流れ、はや数年・・・ingressで八王子神社がポータル(拠点)になってるみてぇんで、ingressも兼ねて行ってみることにしたんさ。
50号バイパスができる前の広沢街道から折れて、山麓の神社へ。その道・・・舗装路だけんど、すごく狭ぇ・・対向車来たらすれ違いもできねーじゃねーきゃ!今日は幸運にも対向車は来なかった。まっさか神社の辺りも狭ぇんきゃ?と思ったら予想外に神社周辺は広くって車もそこそこ駐められたで。その脇には姥沢が流れてらぃね。
社殿・・・元の御真影奉安殿だそうだぃね。
今でも峰の向こう側の西長岡とは親王つながりで交流あるんだんべか?境内末社。別巻によると姫ノ宮、星ノ宮、弁財天の小石祠があると。
一番左は道祖神だったけんど。
境内には由緒記はなかったぃね。神社前より八王子山方面を望む。前の道には「この先行き止まり」の表示 ingressで敵陣営の手に堕ちていたポータルを無事奪還し自陣営に組み込む。そうこうしてるうちに雨が降ってきたんで、退散。
今度はこっから姥沢を伝い、八王子山や西長岡まで辿ってみんべぇか。
【参考文献】
桐生市史別巻 p313-316 桐生市史別巻編集委員会編 桐生市 1971