威光寺・新田義興公の墓(太田市由良町)
中央の宝篋印塔が義興公の墓とされる
久々の新田氏史跡めぐりシリーズ。まだ太田で行ってねぇところがあったで(笑) 今回は新田義貞公の次男、新田義興(よしおき:幼名徳寿丸)の墓とされる宝篋印塔がある太田市由良町の威光寺へ。
えー、まずは寺の山門脇の説明板を
説明板には元徳2年(1330)に新田義興公の開基ってあるんだけんど、義興公は1331年頃生誕とされるんだけどね・・新田徳寿丸は1337年奥州の北畠顕家の西上軍に同行し、吉野で後醍醐天皇に謁見し義興の名を賜った。観応の擾乱に乗じ、上州で挙兵し、その後の1352年に宗良親王を奉じて、弟義宗、従弟脇屋義治と挙兵して鎌倉を一時占拠。しかし朝敵・足利尊氏の反撃にあって鎌倉を追われ、敗走。足利尊氏の没した1358年再び鎌倉を目指したんだけんど、足利方の奸計により、多摩川の矢口の渡しで謀殺されちまう。その後義興の亡霊が夜な夜な現れたため、霊を鎮めるために新田神社が祀られたっつー話さね。(この事件を題材に福内鬼外 (平賀源内 ) らの作った通し狂言『神霊矢口渡』としても有名:
今年11月に国立劇場で演じられた)義興公を祀った大田区・新田神社の2009年の探訪記は
こちら。その後どうゆう経緯があったんかは不明だけんど、ここ威光寺に墓が作られたらしい。後世の追善供養の時にこさえたんだんべなぁ。
義興公の墓は立派な本堂の西側にあるで。
義興公の墓とされる宝篋印塔
近くに義興公の説明板がほしいんね
宝篋印塔は門外漢なんで・・・でも室町期じゃねぇようにも思う
行ってみっかっつーヤツは県道312号で。県道だけんどこの由良の辺りはおーか狭めぇんで注意してくんない。山門への入口もまっさか狭めぇんで3ナンバーの車は入るんに気ぃつけて。
正英山自性院威光寺 (Yahoo!ロコ)
【参考サイト】
破魔矢発祥の地 新田神社 (公式:東京都大田区) ←気合入ってる! 2015年12月23日アクセス
11月歌舞伎公演「通し狂言 神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」 (国立劇場公式) 2015年12月23日アクセス
新田神社(東京都大田区):拙ブログ2009年の記事
10月に発刊された安倍龍太郎氏の小説『
義貞の旗』(集英社)には、これまでの義貞公の小説と趣が違って、この徳寿丸と母(義貞公側室)がキーパーソンになってるんだぃね。義貞公好きな方はぜひ・・・だけんどなんだか義貞公の後醍醐天皇に対する態度がおーか不遜に書かれてて(´Д`)、そしてその最期もあまりにもあっけなくて(´Д`)・・・新田氏シンパとしちゃあ、なんだかなぁな感じさね