浅原の百観音(みどり市指定史跡) 小春日和の29日、石仏巡りをしてる身としては、一度は行ってみっかと思ってた、みどり市大間々町浅原(あさばら)の「浅原の百観音」へ行ってみたで。(ちなみにショーコーの「あさはら」ではなく、原は濁って「あさ
ばら」さね。そして
平坦に発音(not語頭アクセント) この辺の地名や苗字って、みんな
「原」は「バラ」、そして
平坦発音がキモだぃね。(「おおばら(大原)」「きりばら(桐原)」、「くわばら(桑原)」「くりばら(栗原)」など))
大間々市街から小平方面へ。渡良瀬川を渡り、県道334号を東へ。途中分岐して、浅原の奥の右手の路傍に、百体もの石仏が並んだ壮観な光景。すげーな、こりゃ。
みどり市ホームページより引用すっと
浅原の百観音は、天保10年(1839)から天保12年(1841)の3年間にかけて造立されたものである。西国33札所を天保10年、坂東33札所を天保11年、秩父34札所を天保12年に造立している。造立者は願主星野新治郎を中心に、108人の百観音建立寄進者などである。この百観音を彫ったのは、常陸国真壁郡女方村の外山直吉満親である。彼が浅原村に在住して百観音の制作に取り組んだのである。しかし、彼にしても初めから百観音の像を熟知して制作にとりかかったものでないことが像容の形態変化からうかがえ、試行錯誤しながら百観音を完成させていったと考えられる。
札所の本尊(御姿)は聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音・延命観音・不空羂索観音の8種であるが、浅原の百観音の像容では、延命観音・不空羂索観音の像はみられない。これらの観音は石仏としての類例が少なく石工も彫った経験がなかったのかもしれない。一方、西国札所や坂東札所の聖観音と十一面観音の像容は同じ聖観音像の形式で彫られているが、秩父札所の像容は本尊とすべて合致しており西国・坂東札所の像容にみられた異刻はみられない。石工が3年の間に石仏を調査・研究した形跡とみることができよう。
(参考文献 『大間々町誌通史編上巻・別巻七石造物編』等)
2百年ほど前浅原村に住みこんだ石工の外山氏も3年でこんだけ彫るたぁ、さぞやすげぇ労力だったんべなぁ。見守る信仰厚い村民もどんなキモチだったんだんべか。
それにしてもこうゆうのを見っと、ヒトの想いとか情念とかを後世に遺す最高の手段は、
「石に刻む」ことなんだなぁと痛感すらぃね。
百観音の壮観な光景現地説明板なんだかYMOの「増殖」を想い出す朱に塗られたものなど様々馬頭観音【参考】
浅原の百観音 (みどり市ホームページ):2015年11月30日アクセス