一部のマニアな方々(笑)にお贈りする、久々の「東毛の戦争遺跡」シリーズ。
この間、ウェザーニュース・タッチで七色の紫陽花の画像というミッションがあったんで、色とりどりの紫陽花が咲いてる穴場、笠懸町鹿・鹿の川(かのがわ)の赤城神社に行ってみたんさ。(ミッションで撮った画像を元にした花図鑑・紫陽花 2015 は
こちら)
紫陽花を撮ってると、この神社には石灯籠がいくつかあることに気づいたぃね。石仏巡りの習性(笑)で、どんな銘が彫られてるんか、ついつい見ちまうんだぃなぁ。
拝殿向かって左の石灯籠は「参宮記念」の銘。向かって右の石灯籠は・・・よく見てみっと・・・!! 「
大演習記念」の銘が彫ってあるで!
「大演習記念」
側面には「昭和九年十一月吉日 籾山邦衛」の銘
籾山氏は桐生愛国飛行場開設に尽力した当時の笠懸村長
昭和9年の大演習って・・・これはあの
桐生愛国飛行場跡の記事でも触れた昭和9年秋の
陸軍特別大演習を記念・献上された石灯籠なんきゃ!笠懸図書館で発見した『鹿の川村伝記』(阿部悦男 1985)に陸軍特別大演習の記載があったんで、がんばってその箇所を打ち込んで引用すっと、
その五十六章 愛国飛行場にて大閲兵式挙行される
昭和九年秋、第十四師団を中心に二ケ師団の兵士五万有余の動員兵士が参加して大演習があり、笠懸村を最後の戦場としての決戦地点とし、演習終了の後、大閲兵式場となったのである。長野県、栃木県、茨城県、埼玉県と群馬県と広大な地域を戦場に想定し、秋季大演習がくりひろげたれた。東西両軍共次第次第に進攻し、戦場もせばまり、そのころになると兵士もかなりつかれ、行軍中にも居眠りをして土手下に転落する兵も出るという長期の演習であった。
日を追って群馬県内に入り、笠懸近くまでくるといよいよ決戦の期も熟して来た。ついに、西の方から進攻してきた部隊は鹿田の大田んぼが決戦集結地となり、東は鹿の川から阿左美の間が決戦場となり、大演習も集結をみた。最後の仕上げの閲兵式が愛国飛行場、現在の四十三、四組及び就農部落である処で行われたが、さしも広い飛行場もせまく、入場する部隊、出場する部隊と鹿の川、久宮、前鹿田、各部落地帯は、兵士や戦車、大砲、軍馬、装甲車等で見物人は右往左往する一方で、うかうかしていられない状態であった。この為朝から夕方近くまでかかるという有様で、遠い部隊等は前夜鹿の川及び隣接部落に集結して露営する状況で混雑を極めた。閲兵式も終わったが当日また翌日と宿泊して帰隊する部隊もあって、数日間鹿の川附近は兵士でうまる程であった。兵士のはばのきいた時代で、また軍国主義時代の未曾有の一大祭典であった。 (以下略)
当時は、この辺りは見渡すかぎりの野っ原で、演習にも好都合だったんべなぁ。今のみどり市の人口に匹敵する5万人の兵士が来ちゃったら、村も大騒ぎだったんべなぁ。その1年後の昭和10年(1935)には、この地は
大旋風で甚大な被害に見舞われ、田舎の笠懸村は本当に毎年大変な騒ぎだったんじゃねぇかと。
当時を伝える貴重なもんだんべから、大切に保存してってもらいてぇもんだぃね。
鹿の川・赤城神社 (Yahoo!ロコ)
【参考文献】
『笠懸村誌・下巻』 p272-275 笠懸村誌編集室 1988
『久宮村・桃頭村の歴史』 p57-58 六区公民館落成記念誌 1990
『鹿の川村伝記』 p116-117 阿部悦男 1985 (自費出版・みどり市立笠懸図書館献本)
『戦後70年戦時下の記憶とくらし』 展示図録 岩宿博物館第59回企画展 2015