川俣事件衝突の地(明和町指定史跡)
こないだ直訴気取りで園遊会で天皇陛下に手紙を渡した不埒な議員がいたけんど、思慮を欠いたパフォーマンスの極みで許し難ぇやぃな。あんな愚行を「平成の田中正造」とか軽々しく報道したマスコミ連中も成敗に値すらぃ。渡良瀬川流域の人達には田中正造翁は正に「義人」で、あんな変人の愚行が同列に扱われようもんなら失礼千万だぃ。そんな事件もあったんで、川俣駅に行ぐんなら、ぜひ有名な足尾鉱毒の公害闘争、川俣事件衝突の地にも行ってみっかと思い立ったぃ。
足尾鉱毒の被害農民と警官隊とが衝突した公害闘争「川俣事件」。川俣駅前に説明板が立ってるで。打ち込むの面倒だし、画像ごと引用してみんべぇか。
川俣駅前の説明板
Wikipediaによると概略は以下の通り
川俣事件は、1900年2月13日、群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で、足尾鉱毒事件に関して、政府に請願するために出かける途中の農民と警官が衝突した事件。当時は兇徒聚集事件と呼ばれた。明治期の大規模な集会・言論弾圧事件として有名。
農民67名が逮捕され、うち51名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着した。
足尾鉱毒による被害が嵩じると農民たちは「押出し」とゆう「大挙しての請願行動」を行ったんさ。指導したんは当時の衆議院議員・田中正造翁。第4回の押出しの大規模衝突が川俣事件と呼ばれてるんだぃね。ここは日光脇往還の川俣宿があったとこらしい。田中翁は事件の2日後及び4日後国会で事件に関する質問を行った。翌年議員を辞職し、同年12月10日、自らの命を賭して日比谷で主権者であった明治天皇に鉱毒事件の直訴をしたんは有名な話。どこぞの議員とは政治家としての覚悟と器の差が歴然だぃね。
事件発生百年後の2000年2月13日、川俣事件衝突の地は明和町指定史跡になり、事件発生現場に、川俣事件記念碑が建てられたそうだぃね。長い碑文全文は
明和町のホームページで見てもらうんべぇ。
川俣駅から、実際歩ってみっと・・・結構な距離があったぃ。(足の悪りぃ人はまず無理だんべ)それに町指定史跡とゆうには道中に案内看板もなかなかめっかんねぇんもなんだかなぁ。(駅から歩って見にくるヤツは想定外なんかもしんねぇけんどね)
川俣事件衝突の地 (このあたり:Yahoo!ロコ)
川俣事件記念碑 (明和町ホームページ)(2013年11月7日アクセス)