義昌寺 (桐生市新里町新川)
私用があり結局2週連続で新里へ行ぐ。時間潰しに新里にある新田氏関連史跡を巡ることにしたで。
まずは新川の善昌寺へ。
新川は義貞公の執事、紀氏の末裔とゆう舟田(船田)義昌の拠点があったとされ、善昌寺は舟田氏の菩提寺とされてる寺さね。しかもここには新田義貞公の首塚があるってゆーじゃねーきゃ!(
花見塚神社もそうだったけんど、新田義貞公の首塚は全国に数カ所あるんだそうだぃね)舟田義昌の館跡碑は世良田にあるってゆうし、当時の新田庄の北限のこの寺で出家してたんだんべか?(『太平記』では「舟田入道」として登場してるんさね)
善昌寺へ車を走らせる。途中の道には案内看板がいっぺぇ出てるんでわかりやしぃやぃね。数百年の歴史的変遷で今はここは桐生市になっちゃったけど、ここいらまでが新田庄だったんだなぁと思うと感慨深ぇやぃなぁ・・・迷うことなく善昌寺に到着。山間の古刹といった雰囲気さね。
山門に「新田義貞公首塚」「新田義宗公墓」の掲示が出てた。
うつぶしの森で戦死したとゆう新田義宗もここに祀られてるんきゃ。
本堂へ/梵鐘/首塚案内 まずは本堂に参拝。義貞公の首塚はと・・本堂に案内が表示されてらぃね。本堂裏に行ってみっか。
本堂裏の五輪塔群
・・・真ん中のでかいのが義貞公首塚とゆわれてるもの
義宗公の五輪塔はどれなんかわからず
近くに石碑あった。がんばって碑文を打ち込んでみんべぇか。
新田義貞公首塚之碑
当山は大同元年(八○六)高祖伝教大師 初めての関東下向の節に先達として来られた宥海和尚により開基される。古代からの霊場にて由緒殊勝の地である。
新田義貞公とも縁の深い寺である。
義貞公の執事で内室の父、舟田長門守入道義昌は当時の坊にして信実の人なり。
義貞公 義兵を起きて鎌倉攻めの時 当寺に武運を祈り 祈願ありて閼伽井の水を汲み軍神を祭り軍勢を集む。今の廟所は其節に旗を立て給う武者屯の地なり。
武運拙なく義貞公 延元三年(一三三八)七月二日越前藤島にて討死の時 舟田入道義昌は忍びて京都に出て丹局と云う女儀(匂当内侍の侍女)に頼み 六条河原で晒されし義貞公の御首を求める 丹局は討残さる譜代の下臣らと心を合わせ漸々に本国上野に帰り 舟田入道義昌に之を渡す。義昌大いに嘆き悲しみ 当山に葬り奉り義貞公の石塔並びに一類中近年に戦死せし累代之家臣悉くに石を立てて仏事作善す。後に十三回忌を密か経営し氏族ら忍々の廟参なり。
合掌
舟田義昌って、義貞公の岳父だったんきゃ??それに『太平記』だと舟田入道は藤島の義貞公の討死の前の、京都合戦で戦死しちゃってるんだけんど・・・??・・・果たして真相や如何に。
今は桐生市民になっちゃった新川の人たちも、ぜひ新田の英雄・義貞公を大切にしてくんなぃね。
(つづく)
善昌寺(義貞公首塚も表示される!;ちず丸リンク)
善昌寺の新田義貞公首塚 (桐生市ホームページ)