2011年 08月 31日
上野国「寺尾城」は何処に
 今回の記事はマニアックで長げぇよ(笑)

 新田氏関連史跡めぐり・・・を進めてぐと、やっぱ「寺尾城」のことは避けて通れねぇやぃね。

 新田氏の始祖、新田義重は治承4年(1180)の源頼朝挙兵の際に、甥の足利義兼・子の山名義範・孫の里見義成らが早くに、その麾下に帰参したのに対し、義重は「寺尾城」に籠って、独立で平家打倒の構えをみせ、日和見的態度を取ったんだと。これが頼朝の勘気に触れ、足利、山名、里見の厚遇に対して、以降新田氏は冷遇されちまう歴史を辿ることになっていたんだけんど・・・

 で、この「寺尾城」がどこにあったんか?が古くから郷土史家の争点になってるんだぃね。

古来有力なんは以下の2説。

(1) 片岡郡寺尾村(現高崎市寺尾町)周辺
(2) 新田郡寺井村(現太田市寺井・天良町)周辺


(他にも世良田や反町、最初片岡にあって義重の隠居後新田、とか諸説があるらしい)

 戦前から群馬の郷土史学者の間で侃々諤々の議論が行われていたんさ。現在では(1)の説が主流になってて、実際高崎の寺尾には中世の城郭の遺構があるらしいんさ。(観音山ファミリーパークのハイキングコース(中央コースが相当)にもなってるらしい)

 戦前は、(2)の説も結構ハバを効かせていたみてぇだで。『新田の史蹟』等、多くの郷土史本を書いてる岡部福蔵氏がその先鋒で、戦前の郷土史雑誌『上毛及び上毛人』を見っと毎号、新田寺尾派と片岡寺尾派が激しく議論を展開してるんがわからぃね。

 現在では生品神社で挙兵した義貞公は、笠懸野の東山道を西走したと考えられてて、八幡荘(現高崎市)で、越後の新田一族郎党と合流してるとされてるんで、高崎寺尾が新田始祖の地であったっつー説も確かに合理性があるように思うで。

 しっかし東毛では未だ(2)の説を信じる人もいっぺぇいるみて。(ただ太田市の「太平記の里」のパンフレットを見ても、(2)の説の説明は全くされてねんだぃね)

 (2)の説の最も不利な点は、新田の地に寺尾とゆう地名が現存してねぇってことさね。

 東毛シンパのオレとしては(2)の説も文献的にも少し掘り下げて、現地リサーチしてみようじゃねぇきゃ。

 戦前の(2)に関連する主な文献を挙げてみっと・・・(前述の岡部氏の『新田の史蹟』が新田寺尾を力説してるんだけんど、十数ページに渡ってて、余りにも長げんで(笑)引用割愛)

まずは明治時代の公文書ともゆえる『上野国郡村誌』の記載を確認。

◆ 『上野国郡村誌』
新田郡寺井村

聖王寺
(前略)村ノ北方ニアリ、真言宗鳥山村西慶寺末、僧秀山開基、山ヲ寺尾ト號ス、創建年度詳ナラス、天文三年僧祐秀中興

字七堂
 村ノ北方ニアリ、昔時此地ニ七堂伽藍アリシト云フ、或ハ所謂寺尾城及新田館ト云者皆此地ニアリト、然ルニ此説ハ人頗ル之ヲ疑フ、蓋シ古ノ城地ハ或ハ水ニ臨ミ或ハ山ニ拠リ、攻守必ス要害アリ、然後ニ能ク変ニ備ヘテ以テ敵ヲ防グヘシ、今此地ヲ相ルニ形勢要害固ニ以テ城ヲ置クニ足ラスシテ、其名モ亦今ニ徴スヘキナシ、意フニ寺井・寺尾其名相近ク、聖王寺ニ寺尾山アリ、而義重又新田ノ荘司タルヲ以テ強テ此説ヲナスナリ、今案スルニ新田館ハ世良田若クハ反町ニシテ、寺尾ハ片岡郡寺尾邨ナラン、寺尾村ノ城墟微トスルニ足ルモノアリ、或ハ又云、大光院ノ舊地ナリト、然ルニ大光院ノ寺傅ニ此説ナシ、今土人此地ヲ鑿ツモノ往々布目瓦ヲ見ルト云フ
 当時の公文書に近けぇ郡村誌に「寺尾村ノ城墟微トスルニ足ルモノアリ」とバッサリ切って捨てられてるし。実は・・・昔オレはこの地区に住んでたんだけんど、地元では大光院の後に生えていたっつー呑竜松が代々植え替えられてるし、大光院の開山忌には、寺井で供餅こさえて奉納に行ぐ儀式が今でもあるみてぇだしなぁ。


他にも、図書館で発掘した古りぃ文献では

◆ 井原儀 『新田德川諸族の發祥地・新田名勝舊蹟誌』 山陽堂 1913
p47
眞言宗聖王寺と舊大光址
 強戸村大字寺井村に在る古義眞言派の寺院にして、寺尾山と號す。當寺には、菊一文字の太刀と稱せらるゝもの一口及び鎌倉時代の兜一個を藏す。共に隣地なる八幡神社付近の古墳中より發掘せしものなり。地蔵堂には、もと地蔵窪にありし地蔵を安置す。堂後の山林地を寺尾七堂といふ。往時大光院ありし所と稱せらる。

p48
寺尾城址と新田氏
 寺尾山聖王寺の東に茶臼山或は館山といへる所あり。傅へいふ寺尾城のありし地にして、新田義重以来義兼・義房及び寺井次郎兼氏等の城居せし所なりと。一説に寺尾城は、世良田村長楽寺の北より總持寺に至る一帯の地域、或は群馬縣片岡村觀音山の南に蜿蜒せる一小丘なる館山に在りといふものあり。
 ・・・とゆうような感じさね。

 兜は聖王寺の寺宝になってるらしいんだけんど、義重公の兜だったらいんにねぇ。

 高崎の寺尾は今でも地名があるけど、新田の寺井は「寺尾」とゆわれてねぇやぃな。上にあるように聖王寺の山号が「寺尾山」っつーこと、(何の文献で読んだんかは忘れたけんど)「寺尾」の名が刻まれた石仏があるってゆうし、あるいは以下のように高山彦九郎の日記には「寺尾」の地名が出てくることなんかが、新田郡寺尾説を支持する理由になってるらしいんさね。

◆ 高山彦九郎 『忍山湯旅の記』 (安永四年七月二十九日;1774)
北上鳥山の方へ行きて堀を橋にて郷戸村也、東に金山の松茂きに麓稻の蒼みたる所いとよし、北には小高き所に人家並ひて是レもまたよし、是レも郷戸の中也、彼ノ小高き所を左に見て東北へ行く、渡り彼ノ人家の前を掘流る是レを新田掘と云ふ也、郷戸の西に寺尾村見ゆ、猶ほりにさかのぼりて樋有り、水地中を行きて南に流る、土手の方への用水ならん
 確かに寺尾が出てくるで。彦九郎ほどの当時の知識人が間違えるはずはねぇんじゃねんかなぁとも思うし・・・

 ならばその寺尾山聖王寺に久々に行ってみようじゃねーきゃ。

 実はここ・・・オレがガキの頃の遊び場さね。なんで周辺地域はおーか詳しい(笑)ラジオ体操もここでやったし、境内はゴムボール野球をやる場所だったんさ。

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寺尾山聖王子本堂

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灯には大中黒の紋が入ぇってる/如意輪観音&青面金剛/石仏多数

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 いやはや石仏多数・・・この辺には珍しい「道祖神」と彫られたもんもある。そして青面金剛?と思われる石仏(右)発見。彫られてる文字は劣化して読めず。・・崩れたんだか最初からこんな造形だったんか・・・いずれにしても珍しいんねー(月日・二鶏・二猿があるように見える)ガキの頃は意識してなかったけんど、ここってすげぇ場所なんかもしんねぇ!


そしてその横にキレイな青面金剛発見!

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青面金剛・正徳2年(1712)

掘られた文字をよく見っと
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なんと「寺尾村」の文字を発見!


 この地域も300年ほど前には「寺尾」って名が残ってたんきゃ!

 これが何かの文献で読んだ「寺尾」の名が刻まれた石仏ってことなんきゃ?ちなみに隣の如意輪観音の台座は「寺井村」になってるんだけんど。

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地蔵堂/如意輪観音の台座は「寺井村」/隣の赤城神社(八幡神社を合祀)


 聖王寺からちっと離れた、県道足利伊勢崎線沿いの新田乃庄本店の一角には「新田庄寺尾城跡」の碑が建てられてるんさ。

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「新田荘寺尾城跡」の碑

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碑の裏面・建立は昭和58年(1983)
・・・享保年間って1716-1735年だからオレの知らねぇ文献や石仏があるんかな?
彦九郎の『忍山湯旅の記』はその50年近く後なんだけんど・・・

 このすぐ西隣のほうに近年、上野国新田郡庁跡が発見されて、古代には郡衙があったんだけんど、まだその後の城郭の跡は発見されてねんで、オレも新田氏を敬愛する気持ちは共感できるけんど、愛好家の方々が石碑を建てちまったんは、いささか勇み足の誹りは免れねんべなぁ。

 この辺の「寺尾」って地名は300年も前には、この辺に存在したんだけんど、何らかの理由でなくなっちまって、隣接する寺井とごっちゃになっちまったってことなんかね・・・今となっては確認する術はねぇやぃなぁ。どっかの古い倉とかから、あっと驚く記録とが出てきてくんねぇかね。

 南北朝の時代を記した『浪合記』には後醍醐天皇の皇孫・尹良親王が寺尾城に籠り、南朝に味方する諸豪を束ね北朝方と戦ったともあり、歴史の舞台に顔を出すこともあるんだけんどね(ただ高崎では南北朝期の伝説が残されていねぇとも聞く)・・・敗軍の新田氏は、足利方の掃討にあい、地下に潜んだんだんべし、関連の史跡は今となっては不明なことが多いやぃね。・・・果たして「寺尾城」は本当はどこにあったんかね?

 今回はなんだか煮え切らねぇ東毛びいきな探訪記事で申し訳ねぇけんど、いちよー新田寺尾説の紹介とゆうことで「新田氏関連史跡めぐり」に加えとくね。高崎の寺尾も一度探訪してみなくっちゃなぁ。

寺尾山聖王寺 (ちず丸リンク)

【参考文献】
岡部福蔵 『新田の史蹟』 p20-34 綿打村 1933
『上毛及び上毛人』
『上野国郡村誌 新田郡寺井村』
井原儀 『新田德川諸族の發祥地・新田名勝舊蹟誌』 p47-48 山陽堂 1913
高山彦九郎 『忍山湯旅の記』 (安永四年七月二十九日;1774)
峰岸純夫 人物叢書239 『新田義貞』 吉川弘文館 2005
『浪合記』

【その後の追記:オレの私見】
 私見だけんど・・・寺尾館って、実は片岡・新田どっちにもあったんじゃねぇかね?最初はもちろん片岡の寺尾だったんだべぇけんど、新田荘経営の必要があり、義重公が湧水地でもあったであろうこの地に新たに館を作り、「寺尾殿」って呼ばれてたんじゃねぇか。そして後々にこの地区が寺尾とも呼ばれたんじゃねぇかと・・・まぁ頼朝が遊覧の後に立ち寄った「新田館」はどっちだかわかんねぇけんどね。
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by dr_suzuki | 2011-08-31 19:30 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
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Commented by トクチャン at 2011-09-11 10:06 x
こんちは。太田周辺のことにまっさか詳しいと思ったら、ここの出かい。天良はずいぶんめぇだけんど、行ったことがあるんね。
鳥祟神社古墳、二つ山古墳、亀山古墳、鶴山古墳を見に行ったんだけんど、治良門橋の駅からまぁ~ずよく歩いたなぁ~
惜しいのは鶴山古墳のほとんど畑になってて、前方部が平らになってたことだいね。太田市が買い取って整備出来ねぇもんだろうか。市長に言ってみてくんない。
Commented by dr_suzuki at 2011-09-11 23:47
▼トクチャンさん
オレにはそんな政治力はねぇよ(笑)
しっかし治良門橋駅から歩ってぐたぁ、まぁず健脚だぃなぁ。


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