藪塚西野・白髭山西福寺・赤子地蔵尊・・・完全逆光!
『藪塚鑛泉案内』(1926) をみてみっと、絵図の中に「
赤子山」(赤い丸;オレが挿入)という山があって、藪塚駅前の県道脇に「
赤子地蔵」(橙の丸:オレが挿入)とゆうんに気づいたぃね。
「赤子地蔵」きゃ・・・検索してみっと、太田市ホームページでひっかかったで。太田市(旧藪塚本町)の重要文化財として現存してるんみて。
こう紹介されてるし。
んじゃぁ、そんな霊験あらたかな地蔵さんを拝んでみんべぇか・・・っつーことで仕事帰ぇりに寄ってみたで。
西福寺は県道太田大間々線の脇にあらぃね。境内の本堂横に赤子地蔵尊があるで。脇には説明板が建てられてるんさ。打ち込むの面倒なんで、そのまんま画像で掲載しとくで。
現地説明板
で、堂は閉められてたけんど、謹んでガラス越しに御姿を撮らせていただく。
赤子地蔵(太田市指定重要文化財)
1月24日が縁日だったため?なんか供物がいっぺぇだぃね。今でも地元の人の信仰集めてるんだねぇ。
西福寺境内にはおーか古いスタイル青面金剛の庚申塔なんかもあって、この地域の縁になってたんが良くわからぃね。
じゃあ地蔵様があったっつー「赤子山」ってどこにあったんだんべか?・・・地元の人に聞いた話じゃ近年の田圃の開発で削平されちゃったかも?とも聞かぃね。『藪塚鑛泉案内』の絵図だと今の谷津池の西北側の小丘がそんな感じもするけんだけんどね・・・
ってことで文献的考察。
『藪塚鑛泉案内』p28-29の本文中にこう紹介されてる。
「西野の赤子地蔵」
藪塚駅から南へ数町縣道端に西福寺と呼ぶ寺の境内に赤子地蔵尊が祀られてある。
往古惟高親王の御乳母が赤子山(御所山の南方)で地蔵尊を勸修したが、其地蔵尊を此所に移した者で子供の夜泣きを止めるのに不思議に霊験がるので、遠近より信仰者が参集する。
『薮塚本町の民俗』(1974) p73には
赤っ子地蔵
白髭山西福寺の境内にある。一月二十四日が縁日で、赤っ子の夜泣きにきく。五十年くらい前に、赤っ子山から移した。四つ前(九時前)にお参りするときく。新潟・東京・横浜の方から来ることもある。縁日には、かま番(一年の行事を司る世話人)が、旗や幟を立て、お参りに来た人におまわし(団子)を渡す。この団子を食べると、風邪を引かない。団子の米は、村中から寄せ、二斗ほど集る。
惟喬親王の乳母の朝尾という人が、惟喬親王が生まれた時、薬を見つけようと探した時に寄りかかった石が地蔵様だった。それが赤っ子山にあった。(西野)
寺に安置した時期も、太田市のサイトは「江戸時代」、『藪塚本町の民俗』の伝承だと「五十年くらい前」だし・・・何よりその50年程年前に出版された『藪塚鑛泉案内』にはちゃんとした年代が明記されてねぇし・・・やっぱ江戸時代あたりに安置されたんかねぇ。「新潟・東京・横浜の方から来ることもある。」んなら、1世紀ぐれぇ前には、ここはなっからすげぇ
パワースポットだったんだんべなぁ。
谷津池西北の小丘にもいっぺん上ってみなくっちゃね。
【参考文献】
『藪塚鑛泉案内』絵図, p41 今井武八郎 北新鑛泉同業組合事務所発行 1926
『薮塚本町の民俗』 p73 群馬県教育委員会 1974
太田市ホームページ
【追記;1月31日】
太田の同じ職場の方の実家が湯の入で、そこに80代のお父様(M氏)がご健在とのことなんで、M氏に赤子山の位置を伺ったところ「
赤子山は谷津池の西北の小丘」との情報をいただぃたぃね。あとで探検してみんべぇ。そして今はへびセンターになっちゃった「谷山」は、刀鍛冶の鉄屑を捨ててたといゆう伝説があって「金糞山」ともゆわれてたんだと。