円福寺茶臼山古墳 (太田市別所町);西側の水田から
太田市宝泉台地の西部にある県内第3の古墳。(太田市内では天神山古墳に次いで2位) 間近に見るとたしかにでっけぇ。東側には円福寺や伝新田氏累代の鞍部には十二所神社があるんだけんど、西側からみるとよく古墳の原型を留めてらぃね。これだけのでっけぇもんをよくぞ造ったもんだぃなぁ。由良の地に聳える、まさに「山」とゆえるレベルだぃねぇ。
現地案内板
その墳丘近くには
国良親王御陵の碑
国良親王???・・・実は浅学ゆえ全く知らなかったんで図書館等で調べてみたで。
国良親王は新田義貞公と勾当内侍の子である山吹姫と、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の間に生まれた皇子で、国良親王が新田荘にいて、ここに葬られたといゆう伝説があるらしいんさね。
宗良親王は正平一統の際に新田義興・義宗とともに鎌倉を一時奪還、征夷大将軍に任じられる。北朝方に敗れ鎌倉を再奪取された後は、義宗や南朝勢力と共に越後、上州や信濃で南朝の勢力挽回のための軍事行動をしたと伝えられている。国良親王は史実では皇子として認められてねぇ模様。国良親王は円福寺にいて、義宗は新田政義が築き新田累代の拠点となっていた東の台源氏館にいたとも伝えられてるとのことだぃね。
『新田郡宝泉村誌』(1976)には、以下のような伝説が記載されてる。
円福寺保存銅板印刷によると、
興国二年(後村上天皇今より約六二七年前)征東将軍一品中務卿宗良親王、信州伊那郡山中において、国良親王を生む、その後山吹女剃髪して覚心尼と云う。これより宗良親王上野着御の砌り、金山、艮の方畠中と云えるところに御所を構えしが後同由良郷宝泉野に御所を移させ給う。爾来金山城を実城と称し、新田貞氏公をもってその実城の第一世とす、貞氏は国良親王を守護し奉りもって新田宮内と云う処に花見塚をたて、更に御野所となす、親王は正平二十四年八月九日をもって薨去あらせられ、月の十五日をもって同荘由良別墅円福寺中の茶臼山に葬り奉る、御年三十一、以上の伝説がある。
石碑の感じが
矢止めの松の石碑とおんなじようだから、戦前に新田氏関連の史跡を一連で顕彰したもんなんだんべか?(→後に裏を見たら昭和34年建立だったぃね・・・)
果たして伝説の真実や如何に?
それにしても墳丘近く、仄暗ぇは、蚊の大群がいるはで辟易したで。やっぱ古墳見学は冬に限るんねー。
太田市|円福寺茶臼山古墳 (太田市ホームページ)
円福寺茶臼山古墳 (ちず丸リンク)
「伝説地」なんだけど、一応「新田氏関連史跡めぐり」にも加えとくとすっか。
【参考文献】
『新田郡宝泉村誌』 p750-754 宝泉村誌編纂委員会 1976
『皇子たちの南北朝―後醍醐天皇の分身』 森 茂暁 中公文庫 中央公論新社 2007