御室山円福寺山門
8月某日夕方、仕事帰ぇりに「おおたんの史跡めぐりスタンプラリー」16ポイントめを目指し、新田荘遺跡・円福寺のある別所町へ。・・・実は最初は仕事が延びい辿り着く前に日が暮れ、2度目は着いた途端に車の外に出るのも躊躇すっほどの土砂降りの雷雨orz 3度目の訪問にしてやっとスタンプをゲットできたで。
円福寺は、新田政義によって茶臼山古墳の上に築かれた真言宗の古刹。以来、政氏、基氏、朝氏の四代の位牌が保存されてるとゆう。
現地案内板
新田政義は新田本宗家4代当主(義貞公は8代目)、Wikipediaから引用すっと
仁治3年(1242年)4月、幕府から預けられていた囚人に脱走され、過怠料として三千疋を納めた。寛元2年(1244年)6月、京都大番役として在京していた政義は幕府に無許可で昇殿と検非違使への任官を求めた。無許可任官は幕法に違反する行為であるため、幕府との騒動を怖れる朝廷に拒否される。政義は幕府や朝廷に無許可で出家し、大番役を中止して新田荘に帰り幕府への出仕を拒否した。
無許可の任官や自由出家は所領を没収されるような大罪であったにもかかわらず、妻の実家足利氏の働きかけがあったのか、所領の一部と惣領職を没収されたのみの寛大な処置で済んだ。政義は円福寺を創建して隠居した。
新田氏惣領職は庶家の世良田義季と岩松時兼らに分けられ、「半分惣領」として両者が新田氏を率いることとなった(まもなく義季の子頼氏と時兼の子経国らが家督を継いだ)。正嘉元年(1257年)に71歳で没し、長男の政氏が父の後を継いだ。墓は、自らが開基した群馬県太田市の円福寺にある。
政義の軽挙妄動により、新田氏の没落は決定的となり、新田本宗家は『吾妻鏡』にも登場しないような一地方御家人に零落した。
この政義の乱心を契機に地方御家人に凋落した新田氏と、片や幕府の有力御家人となってった足利氏・・・
円福寺本堂・再建され、まるで中国の寺院のようだぃね
石段脇の青面金剛(延宝八年(1680) 三猿 二鶏)
千手観音堂へ
千手観音堂・観音様は拝観できず
周りは樹が鬱蒼としてて、とても薄暗れぇんさね。
古墳鞍部には、16体の神像が安置されてっつー十二所神社
神像は拝観できず
十二所神社神像についての解説は
こっち。(太田市ホームページ)
墳丘近くには「国良親王御陵の碑」もある。(国良親王伝説については後述予定)
室町時代の石幢(せきどう)・先祖供養のための石造物
そして境内南には「伝新田氏累代の墓」があるんさね。
夕方に来たからしょーがねぇが境内は蚊のいっぺぇいて辟易だぃねぇ・・・
(「伝新田氏累代の墓」へつづく)
円福寺・十二所神社 (ちず丸リンク)