大舘町氏館跡 (太田市大舘町)
こないだヤフオクで週刊ビジュアル45巻「日本の合戦 新田義貞と鎌倉攻め」をやっとを手に入れたぃね。(以前一度落札でぎなかったんで、今回は意地でも!と思ったんだけんど・・・あっけなく安価に落札できたぃね。ラッキー!) 義貞公の鎌倉攻略が、図解や漫画でよくまとまってらぃね。未だ
鎌倉に行ったことのねぇオレの脳内散策には持ってこいの本だぃね。(しっかし東毛じゃ小中学校の修学旅行ってゆったら鎌倉が王道だんべに、なぜかオレの行ってた小・中学校の修学旅行は鎌倉じゃなくって、なぜか静岡っつー、今思ってもまぁず変な学校だったぃな・・・娘も修学旅行で鎌倉行ぐことになって、これでオレんチで鎌倉にいったことねぇんはオレだけになったぃねorz)
義貞公の稲村ケ崎からの鎌倉攻めは、後に文部省唱歌にも謳われたぐれぇだけんど、その大侵攻作戦の前に、極楽寺坂から稲村ケ崎を突破して鎌倉に侵攻し、討死した新田軍の勇猛な大将がいたんさね。それが新田一族の大舘(大館)宗氏だぃね。(この記事はキホン「舘」にしとく) 『太平記』にはこう記されてる。
已五月十九日ノ早旦ニ、極楽寺ノ切通ノ軍破レテ敵攻入ナンド聞ヘシカバ、本間山城左衛門・若党中間百余人、是ヲ最後ト出立テ極楽寺坂ヘゾ向ヒケル。敵ノ大将大館二郎宗氏ガ、三万余騎ニテ扣タル真中ヘ懸入テ、勇誇タル大勢ヲ八方ヘ追散シ、大将宗氏ニ組ント透間モナクゾ懸リケル。三万余騎ノ兵共須臾ノ程ニ分レ靡キ、腰越マデゾ引タリケル。余リニ手繁ク進デ懸リシカバ、大将宗氏ハ取テ返シ思フ程闘テ、本間ガ郎等ト引組デ、差違ヘテゾ伏給ヒケル。(『太平記』巻第十 赤橋相摸守自害事付本間自害事)
大舘氏は新田政義の二男、大舘家氏を祖とし、宗氏は家氏の次男。(長男は為氏は
綿打氏の祖)宗氏の子、幸氏、氏明は南朝に仕え、特に嫡系となった氏明は伊予国で奮戦し、世田城で自害してる。その子、義冬は九州に潜伏してたところをバサラ大名で有名な佐々木道誉に見いだされ、室町幕府の足利義満に仕え、北朝による治部少輔に任官になったんだと。以降の大舘氏は室町幕府内では、大舘一族は要職として活躍したんだそうだぃね。(時代が変わったとはいえ、南朝に殉じた先祖と違って、敵であった北朝に仕えちゃうんだぃねぇ・・・)。
そんな大舘氏の館跡が、現在の太田市大舘町に居城があったとゆう話なんで、訪れてみたぃね。最初に大舘町に住む知り合いに聞くと「そんな館跡なんてありましたっけねぇ?」とゆわれる始末。地元でもあんま知られてねぇってことなんかな?
県道298号線を西へ。東楊寺の所の信号を折れて北上。旧尾島町は史跡の看板が主要交差点にちゃんと整備されてるんで史跡めぐりするんにはいい所だぃね。
いったいどこ?西のほーに目をやると・・・・
畑の中に、ポツンとなんかある・・・あれみてだな。
北の道へ。そこで農作業してたおばあさんと話しして、畑の片隅に路駐の許可をもらってそこまで歩っで行ってみたで。
北の道から伸びる未舗装の作業道の脇にある
今は諏訪神社が勧請されたんみて
しかし・・・大舘氏館跡と思われるのは、その「大館氏館跡」の柱と案内看板だけだぃね。もはや周りは畑だらけで土塁や堀なんか全然残ってねぇし・・・・裏手に石祠が2基あったんだけんど、なんかゆわれはあるんかな?
案内看板
確かにこの状況じゃ、地元に住んでる人でも知らねんもしょうがねぇかな。(神社があるゆう認識はあったとしても、ぱっと見これが館跡とは想像もでぎねぇしね)もはや兵どもが夢のあと・・・とゆうぐれぇ何も残ってねんだけんど、いちよー鎌倉攻めの新田一族の勇猛な将の館跡っつーことなんで載せとくとすっかね。
大舘氏館跡 (ちず丸リンク)
(つづく)