2009年 06月 29日
江田館跡 (太田市新田上江田町)
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 新田義貞公と共に生品神社に挙兵し、南朝方の猛将として名を馳せた世良田一族、江田行義の館と伝えられる江田館跡。(『太平記』では挙兵に参加したんは江田三郎光義と記されているが、これは行義の誤記とされてる)鎌倉攻めでは、大舘宗氏とともに極楽寺坂口の大将として活躍。義貞公の死後も、南朝方に尽くし、京都、美作、丹波などに転戦して活躍、大いに足利方を撹乱。南北朝時代の観応二年(1351)新田一族の金谷氏一派が京都・石清水八幡宮に乱入して誅殺されたときに、周囲に「新田兵部少輔(=江田行義のこと)入り来るべし」と触れまわって威嚇した(『園大暦』)ぐれぇで、その頃の京都周囲じゃおーか恐れられてた猛将だったらしいで。行義もまた生品神社の挙兵後、二度と新田の地に再び戻ることはできなかったんだぃね。

 実は江田館跡に行ってみるんは初めて。
 車で行ってみっと、気づかずに一度通り過ぎちまった。案内看板がなかったらちっとわかんなかったんべなぁ。

 案内板を撮ってきたんでみてくんな。
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 『太平記』でも行義の最後は判然としねんだけんど、転戦後備後国に潜んだ子孫は、十代の後に祖先の地に戻ってきたんだそうだぃね。

 復元図によれば、城の周りには土塁と、その外側に堀が巡らされてたらしい。どうもオレたちは「城」ってゆーと天守閣を持ったでっけぇ城を思い浮かべちゃうけど、復元図をみっと中世の平城ってこんな感じだったんだね。今でも確かに土塁と堀の跡が雑草の中にうかがわれらぃね。(画像)

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 館があったところは、今はちっと枯れてる雑草だらけ。こん中に入ぇってぐんは躊躇。土塁の上に踏み跡をめっけたんで、これをたどって、土塁づたいに歩って本丸中央部のほうまで行ってみた。北側の土塁の上に案内版にもあったちっちゃな石宮がめぇる。

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「義貞(ギテイ)様」の石宮

 案内板によると「江田氏子孫が代々義貞、行義を合祀した氏神で、明治六年(1783)新田一族旧臣達が太田金山山頂にこれを祀り、社殿を造営して新田神社としました。」とある。
 うーん、そーだったんかぁ。知らなかったぃねぇ。
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「義貞(ギテイ)様」と土塁


国指定史跡とはいえ、訪れる人もいねぇ、静寂に覆われた中世の平城の跡。
義貞様に手を合わせ、館跡を後にする。
土塁もよく残ってるし、反町館跡とあわせて新田氏フリークは一見の価値あり、だぃね。

b0004675_0545276.gif国指定史跡新田荘遺跡 江田館跡 (Yahoo!ロコ)


【参考文献】
現地案内板 文部科学省他 2001
峰岸純夫 人物叢書239 「新田義貞」 p145-150 吉川弘文館 2005



b0004675_22191314.gif▼追記
「おおたんの史跡探検スタンプラリー」(2010)のスタンプ



【画像の差し替え】
2012年7月、「おおたんの史跡探検スタンプラリー」で再訪したところ、説明板が新調されてたんで、画像を差し替え。
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by dr_suzuki | 2009-06-29 00:15 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(2)
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Commented by sanzokuame at 2009-06-29 21:29
ギテイ様をキティ様と読んでしまったフトドキ者です・・・

まさに「夏草や兵どもが夢の跡」ですねぇ。
Commented by dr_suzuki at 2009-06-30 19:28
▼三束雨さん
それはそれは(笑)
真中の「枯れ」は除草剤でもまいてるんかなぁ。


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