2009年 02月 25日
御所山 (太田市西長岡町) ~ 惟喬親王伝説の山は何処へ
 スギ花粉が飛ぶようになって、オレの今シーズンの山歩きもそろそろ終りの時期が近づいてきたぃねぇ。今年の山歩きの総括・・・ってわけじゃねぇけんど、いくつか今年1年の研究?の成果もあわせて、ここにまとめてみっかと思うんさね。(はぁすっかり民俗学者化してんなぁ(笑))そんなんで今日の記事はおーか長げぇよ。

 昨年の「続・田山花袋も訪れた西長岡鉱泉「長生館」跡は何処に」の記事以来、機会あるごとに、ずっと長生館のことを調べてたんさね。勢いが嵩じてついつい長生館のポストカードなんてーのも収集したりしたで。結構集めてみたんだけんど、一部をご紹介すらぁね。
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こんな彩色のもんもある。
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 いろんな情報を総合すっと、長生館の場所は概ね前回の記事の通りでいんじゃねぇかと思うんさね。当時3階建てってゆーのもまっさか豪儀だったんだねぇ。他にも調べていぐ上でいろんな文献にあたったし、いろんな方と意見交換したり、尾島の太田市教育委員会文化財課で調べさせてもらったりもして、旧新田郡北部の山々の名前もだんだんわかってきたで。

 でもいろんな文献をあたると一つだけよくわかんねぇ山があるんさ。前にも紹介した『上野名蹟図誌(佐波、新田、山田、邑楽の巻)』 (1901版復刻 p94 歴史図書社 1980)にも触れられてる「御所山」だぃね。もう一度その部分を引用してみっか.
長岡鉱泉
 強戸村大字西長岡に在り。発見の年代詳かならず。泉質は塩類泉にして痛風、婦人生殖器病、肝充血等に効あり。明治二十一年十一月初めて鉱泉の分析を東京衛生研究所に請ひ、小川某なるものここに浴場を開き長生館といふ。館内に温冷二様の浴場を設け庭園頗る広くして閑静なり。
 此処より僅かに五町許りにして御所山といへる山あり。往昔、惟喬親王の住み給へし長岡宮の旧跡なりと言伝ひ風景甚だ佳にして愛観すべし。藪塚鉱泉を距る纔かに二十町許りなるを以て相往来するに便なり、故に夏季は浴客多く甚だ殷賑なり。
一町は約109mなんで、五町は約500mちょっとってところかね。

『太田市史 通史編 民俗上』の中にはこんな記述もある。
御所山というのは、もとの長生館の裏にあるとがった山で、ここには惟喬親王の宮があったといわれているところ。御所山への入り口を御所入という。
 この御所山はしばしばこのブログでも引用している『毛野時報』の新井信示氏の「八王子山脈縦走記」によると
 入長岡と中廣澤とを連絡する籾山峠(百九十二米)を横ぎる。行く手は篠の生えて居る急峻な上がりで此のコース中に於ける「胸つき何町」とか申すべき處である。篠に縋りながら喘ぎ喘ぎ上がれば根元山二百六十米の頂上で、正に強戸薮塚兩村境界の一角に當って居る。長岡方面で御所山といふのはこの山の事であらうか。
 もちろん『上野国郡村誌』の西長岡邨にも「御所山」は触れられてて以下の記述がある。公的文書の郡村誌では、惟喬親王が「某皇子(其名ヲ逸ス)」と無下にされてらぃね。
御所山
髙拾五丈、村ノ北西ニアリ、北方髙尾山ニ接シ西方藪塚邨ニ属ス、山上松及雑樹ヲ生ス、邨人傳ヘ言フ、往昔某皇子(其名ヲ逸ス)謫セラレテ此国ニ流サレ此地ニ居ル、薨シテ此山ニ葬ル、故ニ御所山ト云フ、其居リシ処ヲ天王山ト云フト、其説曖昧信ヲ措クニ足ラスト雖ドモ、其地名ニ即テ之ヲ考フルニ或ハ亦然ルモノアラン、(後略)

b0004675_1810614.jpg  西長岡の惟喬親王伝説精神的支柱の山であるし、昭和初期の紀行文である「八王子山脈縦走記」の記述も鑑み、郡村誌で拾五丈(一丈は約3mなんでわずか45m??)と標高がまぁず低く記載されてるんは気になるけんど、「御所山」は籾山峠西の旧太田市最高地点に違ぇねぇ!と思ってたんさ。(画像の中央の山;形もかっこいーし) 事実、太田市教育委員会文化財課で拝謁した小字図ではこの山の南の多くは「御所ノ入」という小字名になってたんで、オレは更に確信の度合いを高めてたんさね。

 と こ ろ が

 ・・・・先日、太田市SNSでお知りあいになった某氏から、とある情報をもらったぃね。それは『藪塚鑛泉案内』(大正15年刊)という本に、西長岡鉱泉のことが詳しく載っているという情報だったぃね。調べてみっと桐生市立図書館と太田市立図書館に所蔵されてるらしい。家からは桐生の方が若干近ぇので、桐生市立図書館まで行ってその本をみてみた。そこには驚愕の新事実が!!

 まずは口絵にあった「東武線藪塚鑛泉図絵」を謹んで引用(彩色されてたけど白黒コピー;クリックで拡大するで)
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御所山は籾山峠の西の山じゃねぇやぃね! あれは根元山なんか!
図中の「御所山」は、雷電山と長生館の間に描かれてる!

じゃぁ御所山っていったいどこにあったん!?


 郡村誌には根元山も根元神社の記載も一切ねんさね。フツー村の最高峰を山の項に書くもんじゃねんかい?(笑)
 藪塚の山も見慣れぬ名前がいっぺぇだ。良く見ると文化財情報システムでめっけた「蚕影山」も載ってねぇし・・・違う名前で呼ばれてたんきゃ?? わずか80年かそこいらでこれら山々の名称がほぼ消えちまってor変わっちまってんのもなんだかなぁ。

 んじゃ、さらに『藪塚鑛泉案内』を読み進めてぐと・・・(以下、旧漢字でPCで変換不可能のものは新漢字に改めたけんど、原則原文のまま)
p3 位置と地勢
 當鑛泉は湯の入、西長岡、瀧の入の三鑛泉で之を總稱して俗に「藪塚鑛泉」と唱へ北新鑛泉同業組合の名に依って、凡てを統一されて居る。北新の冠詞は其位置を示した者である。
 湯の入鑛泉は群馬県新田郡藪塚本町大字藪塚の東端に位し、八王子山の支脈雷電山の西麓に抱かれて居る。
 西長岡鑛泉は同郡強戸村大字西長岡の西北隅に位し、八王子山の支脈、御所山の東麓にある。
 瀧の入鑛泉は、同郡藪塚本町大字藪塚の東北、八王子山の支脈、大平山の南麓にある
b0004675_739321.jpg なんとまぁ、西長岡鑛泉は御所山の東麓なんかぃ?もし籾山峠の西の山だったら南麓って書かれるだろうから、あそこはもう根元山で決まりだぃね。(→これまでのブログの記事も「根元山」に訂正しとくね。新井氏の最後の一行のせいでまっさか混乱しちゃったなぁ。新井氏は太田中学の関係者みてぇなんで、まぁ許しちゃうんべぇや。右画像は長生館のあったあたりからみた「根元山」)

 さらに
p10 鑛泉地の起源
 西長岡鑛泉は舊記不明なるを以て之を口碑に徴するに其發見は遠く千有餘年の昔である。
 文徳天皇の皇子惟高親王が、御年六才の時八人の宮様と(八王子山名の起因か?)と關東に徒らせ賜ふたが、其折天王山の西北麓に地を相し、貞觀十四年二月二十六日、上野大守として御所を御構へ遊ばされたが其時親王は御所山の東麓に此霊泉を、御發見遊され、折々白馬に跨り天王山下の八幡屋敷を立ち出で、此鑛泉に御入浴遊されたとの事である。
 なぜか惟喬じゃなくって惟高と書いてあったで。まぁ開湯伝説はどこでも宮様や高僧の登場も重要なんで、これを額面通りって訳にはいがねぇんべ。それにしてもやっぱり某国の将軍様といい、高貴な人はみんな白馬にまたがるんだなぁ(笑) 八王子の由来もちっとんべ強引な気も・・・

 そして!!ついにめっけた!「御所山」!
p37 「御所山」
 西長岡鑛泉より数町距れたる西北隅の小山である。往昔惟高親王の御遺跡なりと言ひ傳へ、頂上に惟高神社を祠る。
 たったこれだけかよっ!orz でも高い峰じゃなくって小山なんか!・・・八王子丘陵の主尾根にある可能性は低いってことだぃね。

 いちよー画像つきの紹介なんだけんど・・・これオレの集めたポストカードにもあったで。画像右の石祠だぃね。「鑛泉發見ノ惟喬親王遺跡」とある。
ちなみに左は「長岡石材採掘ノ光景」・・・こんな石切場も近くにあったんかな??
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とゆーことは・・・・

b0004675_1395165.gif  茂木晃 『太田大泉の一○○年』(p176-177 あかぎ出版 2000)掲載の明治45年の地図をもとにして、まとめてみっと、『藪塚鑛泉案内』が宣伝なんでその内容は多少の脚色があるにせよ、山の方角なんかは正しく記述してると仮定すれば、
 長生館(地図の温泉マーク)は「御所山の東麓」、長生館から御所山は「数町距れたる西北隅の小山」で、郡村誌に西側が薮塚領分であって、高さは15丈、絵図中の雷電山の山裾の道は長岡から湯の入への道だろうから、御所山はその道より南にありそうだぃね。(当時は現在の県道のような籾山峠から湯の入への直通の道がなかった。右の地図を参照)

 以上のことから「御所山」は右の図の赤矢印、青矢印の峰の可能性が高けぇやぃね。このうち町村界の尾根筋にあった青矢印、緑矢印についてはゴルフ場の開発により既に削平されてるで。残りは赤矢印ってことになるんだけんど、こないだ雷電山に行ったときに、県道沿いからゴルフ場に目をやると、ホールとホールの間に山頂部が妙に残された山が残ってることに気づいたぃね。(画像を撮るんは失念!)右地図の赤矢印の小丘に相当するんじゃねぇかと。ちず丸で見っと、御所ノ入2番ホール、御所ノ入6番ホールの間だと思われらぃね。もしこの山頂(赤矢印相当)に祠があれば御所山の可能性が濃厚だいね。以前「北長岡 ~ 惟喬親王伝説の里を歩く」で紹介した惟喬親王宮の石祠は新しかったけど、すでに(青矢印のところだとしたら)御所山頂も石祠も失われちゃってて、地元の人が惟喬親王を改めてあそこに祀った可能性も高ぇような気もすんなぁ。(石祠は昭和57年(1982)建立) 緑矢印はまんま「西山」じゃねんかと。

【3月1日追記】
 子供の頃、「御所ノ入」で遊んでたとゆう方から情報をいただいたで。その場所は「赤矢印の山よりもっと北だったかも」とゆう話だぃね。確かに太田市教育委員会で見た小字図の「御所ノ入」は破線の道の北側だったぃね。でもあまり北に行ぐと「東麓」になんねぇ気がすんだけんどね。よって可能性として図に「オレンジの矢印」も新たに追加すんね。この地図の外だけんど、1880年代の迅速測図をみると、もうひとつ北の峯も可能性があっかもなぁ。・・・・まぁどっちもゴルフ場開発で失われてるんだけんどね。オレンジの矢印の雷電山からの尾根部は平坦で、ポストカードの祠周囲の雰囲気とあうような気もすんなぁ。(ただ「とがった山」との『太田市史』との記載とは矛盾すんだけんど・・・) 現時点ではこのオレンジの尾根+もうひとつ北の峰も有力候補だぃね。

 そこでお願いなんだけんど・・・・

もし双葉ゴルフ場でプレーする機会がある人がいたら、ぜひ御所ノ入2番と6番ホールの間の山頂に何があるんだか確認してほしいんだぃね。よろしくたのまぃ。

 最後に『藪塚鑛泉案内』p21に、西長岡鉱泉の紹介で、あの田山花袋の詠んだ歌2首が紹介されてたで。

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 夕日かげ、ながくさし入る山あひの
  春のいでゆは のどけかりけり

 夜半(よは)の雪に春まだあさき山あひの
  いでゆのけふり うもれたるかな


 今後も旧新田郡北部の山について、研究とフィールド調査を進めていぐつもりだぃね。ライフワーク決定!
 ここまで読んでくれてどうもあんがとね。ご意見等もよろしくたのまぃ!

 次は、太田金山を文献でいろいろ調べたんで、その考察をお送りする予定。(はぁすっかり民俗学者風情(笑))

【参考文献】
『藪塚鑛泉案内』 今井武八郎 北新鑛泉同業組合事務所発行 1926
『太田市史 通史編 民俗上』 太田市編・発行 p666 1980
『上野名蹟図誌(佐波、新田、山田、邑楽の巻)』 1901版復刻 p94 歴史図書社 1980
『太田大泉の一○○年』 p176-177 茂木晃 あかぎ出版 2000
『上野国郡村誌』 新田郡西長岡邨
「八王子山脈縦走記」 新井信示 p9-11 『毛野時報』11号 1936

【2010年9月追記】
『薮塚本町の民俗』(群馬県教育委員会 1974)のp166 伝説の項に以下の記述があるのを発見。
惟喬親王 今ゴルフ場でならしたが、御所入にお宮がある。雷電様のまわりに馬場がある。(西野)
すでに1974年以前の時点で御所山は削平されちゃってたんみてね。地図のオレンジの尾根がますます有力?

【2011年1月追記】
『藪塚鑛泉案内』p35 に「御所山頂より望雷電山」の画を発見。引用すっと、
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 まずゆえそうなことは、1.御所山の方が雷電山より低きぃんじゃねーか。2.この雷電山の右には峯があるけんど、左側には峯が見えねぇこと・・・から推察すっと、画像が裏焼じゃなけりゃ、やっぱオレンジの矢印の峯が最も有力?画像の遠近の感じから考えると赤矢印も捨てがてぇやぃな。

【2011年5月追記】
 太田市最高峰・御所山問題~太田市の役人の良識を問う!
 ぜひ御一読いただき、失われる地名について考えてほしいやぃね。
 
太田市標高最高地点の考察 ~ 275m峰・その名は「根元山」か?


 
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by dr_suzuki | 2009-02-25 18:41 | 東毛(+両毛)漫遊 | Trackback | Comments(13)
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Commented by 楚巒山楽会代表幹事 at 2009-02-25 20:25 x
う〜ん。実に説得力のあるご考察。八王子山脈の主稜線に御所山はないということですね。菅塩峠に続いての真実の発掘、天晴れです。
Commented by dr_suzuki at 2009-02-25 20:55
▼楚巒山楽会代表幹事さん
ありがとうございます。
ポストカードいろいろ収集したんですが、「御所山」の葉書は一枚もないし、『藪塚鑛泉案内』は結構画像載ってるんですけど、やはり「御所山」の画像がないんです。画像が残っていれば、同定も簡単だったんに・・・と思います。根元山の石祠もどこへいっちゃったんでしょう?
Commented by Uokazu at 2009-02-26 00:06 x
いつも楽しく読ませてもらっています。温泉好きで田山花袋の本なども読んでいて、長生館にも興味を持っていましたが、現在、八王子在住ということで、何かつながりがあるのではと調べていることは、以前、私の日記に書いたとおりです。
太田の八王子丘陵の由来は小野宮惟喬親王伝説によるものとのことですが、武蔵八王子を支配していた横山党もやはり小野氏の末裔です。
「惟高親王が、御年六才の時八人の宮様と關東に徒らせ賜ふた」という伝説が、ひょっとして牛頭権現信仰とも関わりがあるのではという疑問があります。
長くなりそうなので、いずれまとめてみたいと思います。
Commented by dr_suzuki at 2009-02-26 00:20
▼Uokazuさん
まぁ「鑛泉案内」なんで、客寄せにために多少の脚色とかあるんで、どれも割り引いて考えねぇといけねぇけんどね。本当に東京の八王子や牛頭権現信仰と関連があったらすごいけどねー。
それにしてもこうゆー案内ひとつを読んでも昔の人は、いろんな言葉を知ってるね。まっさか教養があらぃねぇ。
Commented by Uokazu at 2009-02-26 00:30 x
牛頭大王、八王子信仰は日本中にあるようなので、どこも関係があるといえばあるんでしょうね。
長生館のあった場所が今やゴルフ場という結末はちょっと寂しいです。ゴルフ場のパンフレットにも由来を書いてもらいたいなあ。調査がんばってください。
Commented by dr_suzuki at 2009-02-26 07:45
▼Uokazuさん
オレ、ゴルフやらねんで、ゴルフ場ってどうゆうシステムなんかわかんねんだよね。見学させてくれってゆっても無理だんべなー。
Commented by 二つ山 at 2009-02-27 05:15 x
郷土史研究も、ここまでくりゃあ趣味の域を越えてるで。
どこへ行く? ドクター?!
双葉CCなんて、勤めてる人間もどうせ地元の人だろうし、「強戸のXXXだけど、ちょっと中見せてくんない?」って感じで行けると思うけど。そう言えば、もう昔昔の話だけど、双葉の支配人って強戸の人だったで。
Commented by dr_suzuki at 2009-02-27 19:24
▼二つ山さん
やるからには徹底的にという破滅的性格なもんで(笑)
亡くなった初代社長にはコネがちっとんべあったんだけんど、あの頃はこんなことに興味もなかったんでねー。今は何のコネもねーしなー。
Commented by kiryu_kiiro at 2011-05-14 02:16 x
最近、拝見させて頂いております者です。本日、長生館跡地に行ってきました。場所は3つの堤の北にある新しい貯水池の姿見水天宮西隣の民家です。現在、住居として使用しているようですので自動車の窓ごしに確認したところでは遺物らしきものは見つかりませんでした。新しい貯水池付近で畑仕事をしている老婦人の方に長生館の場所を聞きましたので間違いありません。昭和32年12月の火災で焼失後、畑仕事の老婦人の親戚にあたる方が跡地を購入して住居を建てお住まいとの事です。この場所は長生館があった頃の方が現在よりも盛っていて、堤には見物用の船があり周りは桜の木で覆われ綺麗だったと話してくれました。また、小学校の遠足で来る人も多くいたそうです。
Commented by dr_suzuki at 2011-05-14 09:14
▼kiryu_kiiroさん
はじめまして。こちらも現在の状況は把握していますが、個人宅にあるので仔細は記述しないようにしておりました。太田市が御所山を八王子丘陵主尾根にしようと企んでますのでぜひ桐生からも反対して下さいますようお願いします。
Commented at 2011-11-07 21:03 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by dr_suzuki at 2011-11-09 09:11
▼鍵コメさま
お話OKです。
こちらもお伺いしたいことがいくつかありますので、ぜひメールいただけませんか?
Commented at 2011-11-09 17:55 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


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